医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi

 vol.26   NBM:医療概念の変遷   2006-5-29

過日、「NBM」という文字を医療雑誌で眼にした。小生にとって初めての文字であった。数人の医療関係者に尋ねたところ、詳細は理解していないが「NBM」という言葉を耳にしたことがあるという精神科医を除き、皆、首を傾けた。

関係書を開いた(*)。「NBM」はNarrative Based Medicineを意味し、本邦では「物語に基づく医療」と訳されている。「物語に基づく医療」は、「病い」を患者の人生という「大きな物語り」の中で繰り広げられる「一つの物語」と捉え、患者を「物語を語る主体(語り部)」とする一方、「医学的な疾病概念や診断・治療法」を「医療者側の物語」と位置付け、医師をその「語り部」とし、両「語り部」の「物語」を刷り合わせ「新たな物語(医療)」を作り出していくという医療概念である。端的に言うなら、患者、医療者との会話のやり取りの中からその患者にとって最適の医療を構築するというものである。「NBM」は、突然、出現した概念でなく、精神医療分野で従来より行われていると書物に記載されている。徐々に広がりを見せている。

「今日の医学は生物としてのヒト」を臓器・組織・細胞の集合体とみなし、分子レベルまで明らかにすることにより驚異的に発達してきた。同時に人間は、「個々の意思と感情を持ち、社会生活を営み、互いに交流する主体」であり、患者は悩める個体として、全人的な存在として「まるごと」尊重されることなしには癒されることはない。科学としての医学が高度化すればするほど、その成果を個々の患者に還元する精緻な方法論が要請される。このような現代医学の要請に呼応するかのように、近代科学の成果を患者に還元する精緻な方法論として「NBM」が出現してきた。

「NBM」は、医療現場における医療者と患者の対話を、医療の最も本質的な行為として重要視するとともに、最新の生物・生命科学から得た知見や臨床疫学的な情報を、実践の現場において医療に統合し、個々の患者に最大幸福を実現することを目指す医療概念である。

「NBM」は、患者という「語り部」が主体となって行われる医療システムであり理想的と思われる。しかし、「語り部」の一方の医療者が提案し患者が選択した治療方法が果たして
"最善な治療"という保障は無く、あくまでも、一方の「語り部」である医療者の知識、技能、見識に負うところが大きい。「NBM」は、医療をする側の「語り部」が、もう一方の「語り部」である患者が「満足する治療」を常に提供することができれば理想的な医療となりえる。

医療を提供する側の医師は常に矛盾を抱えている。医師は、全ての人は"同一"であるという前提で医学教育を叩き込まれて育つ。さらに、患者は一人一人全く"異なって"いることをも経験的に知っている。医師は異なった二つの見方を、いつも使い分けなければならない。

提供される医療(検査・治療)は、ここ10数年来、「EBM(Evidence Based Medicine)」という概念に基づく医療が主流となり提供されている。医師が提供する医療に「是」とする根拠があるかというものである。ある集団で統計学的に処理され「是」とされた医療を、全ての人に効果のある医療と見なす疫学的手法によって形成された医療に重きをおく医療概念である。全く異なった人生を送ってきた個別的な人に、万人に効果があるとされる医療を適応するというものである。提供される医療が、患者、一人一人が望んでいる医療であるという保障はない。「お仕着せの医療」といえる。いまだ、個別的な医療を行う医療システムは確立されていないが、現時点では「EBM」は医師個人の知識、技能、見識に基づく医療、パターナリズムに基づく医療(父権的医療)より好ましい医療とされている。

太古より患者の情報を得るための手段は患者との会話が全てであった事情もあるが、結果として「NBM」という概念に近似の医療が行われていた。近代科学が検査・治療の著しい発達もたらした今日では、科学が全てを解決してくれるという妄想が、両「語り部」による「新しい物語」の創作を妨げてきたと思われる。

どちらの医療概念が良いかという議論は無意味である。現況では、「NBM」と「EBM」が補完しあうことによりより良い医療が形成されると思われる。患者中心の医療を行うため、二つの医療概念は「車の両輪」の関係でなければならない。「医師、個人の医学的知識と経験でのみ行われる父権的医療」から「証拠に基づく医療」、さらに「二つの概念が補完しあう医療」へと変遷しつつある。

どのような医療を「究極の医療」というのか小生には分らぬが、医師の判断でだけではなく患者が望み満足する医療を「究極」とするならば、まだまだ解決しなければならないことは多い。
しかし、除々にではあるが進化した医療概念が浸透してきている。時代とともに「医療概念」は変遷しているのである。これからどのような「医療概念」が誕生するのであろうか。

"変遷の今日的な様態"を流行(はやり)というなら、医療界は流行に飛びつく習性がある。流行に弱いのである。学会、研究会、研修会といつも最先端の医療を求め駈け廻っている。

本コラムは、関係書を"のりとはさみ"の手法で作り上げたものである。関係書の筆者にお詫びしたい。

(*)斉藤清二:ナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM)、日本医事新報, No.4246、2005
    Greenhalght T, et al eds :Narrative based medicine :BMJ Books,London,
    1998(斉藤清二、他監訳:ナラティブ・ベイスト・メディスン;臨床における物語と対話、
    金剛出版、東京、2001).
   福井次矢 編集:EBM 実践ガイド、医学書院、東京、2001.

  vol.25   人体標本の値段   2006-3-1

             「外科医師育成のための未固定凍結遺体解剖」
                 
"新鮮です。人体側頭部一側1000ドル、子宮付き女性骨盤5000ドル"いかがですか、お求めになりませんか。

実際にこんな広告を目にした訳ではない。ある訳もない。但し、今は、である。これは、「手術手技研鑽」のための「体のパーツ("新鮮人体標本":未固定凍結標本)」の値段であるという。製造元の米国での値段なのか本邦での発売値なのか、廉価なのか高価なのか分らない。しかし、"商品"として売買されていることは事実である。さまざまに処理された人体の標本がインターネット上で流通しているとも聞く。

業者が関与する「新鮮人体標本(人体標本)を用いた手術手技研鑽研究会」での"人体標本"の取り扱いに対し、平成9年、当時の厚生省は、従来から行なわれている死体解剖と異なり「死体解剖保存法」の適応を受けられないばかりか、死体損壊罪に当たる恐れがあると警告したという。しかし、一定の要件下でおこなわれる輸入された"人体標本"を用いた手術手技研修は違法性を問われないようである。

以上のことを、小生は、昨年暮れの医療雑誌に掲載されていた「時論」で知った。表題は「外科系医師の卒後研修としてのFresh Cadaver Dissectionと生前同意」というものである。この「時論」は、米国産の輸入"人体標本"を紹介することを目的としたものではない。本邦での「篤志家の献体による新鮮遺体解剖」の促進および「提供者の生前同意とその手続き」を紹介することを目的に書かれたものである。輸入"人体標本"を利用するのではなく、本邦の篤志家の献体を新鮮なうちに凍結し利用することを促しているのである。なお、英語ではFresh Cadaver Dissectionと表現されているが、"fresh"の邦語訳の"新鮮"は適切でないとの判断で"未固定凍結"という表現が用いられている。

「時論」の著者は、著者の大学での現状を紹介している。ご遺族の了承を得て死後24時間までに大学に到着した献体をFresh Cadaver Dissectionに用いている。到着後、採血、全身凍結、パーツ分けし梱包、フリーザーで保管(マイナス20℃)といった準備作業を経て"人体標本"となる。著者の大学で行われた未固定凍結遺体(新鮮凍結遺体)を利用した手術セミナーには、3年間で200余名の参加者があったという。昨年の日本解剖学会全国集会で、著者が初めて会員各位に紹介したところ、「臨床医が行う手術演習や組織バンクに特化した新しい献体団体を、従来の白菊会(*)等とは異なる組織として設けるべきである」という意見があった。その背景には、アメリカで800体以上の凍結保存の「篤志献体」のパーツを販売して、24万1000ドルの利益を得たと施設があったとの報道が影響しているようであると著者は記している。心なき人に遺体が凍結されれば、遺体は"利益を生む高価な商品"として扱われるのである(**)。

小生は先に紹介したように、著者は「手術練習用の"人体標本"を、本邦では献体で製作することを促している」と理解しているが、著者が所属する学会でも「患者さんの命を助けるべき医師が、薬石効なく亡くなられたご献体を手術の研修に用いる姿勢自体に、『不謹慎』である」という批判が多数あったそうである。小生は、無論、お亡くなりになった篤志の方からの提供の角膜移植、生態弁移植、腎移植、心臓移植のことは知っている。反対ではない。どんなに「益」があってもお亡くなりになったばかりの遺体を、外科医の技術習得のための練習台とすることに疑問を感ずる。そのための"人体標本"の存在にすら腹立たしくなる。

ところが、若い医師やCo-medical Staffは、患者、ご家族の承諾があれば良いのではないか、良い外科医が育つなら推進すべきであるという意見が少なくない。しかし、賛意を表する人でも自分は献体をする積りはないという。臓器移植におけるドナーと同じ心情である。本邦で臓器移植が予想以上に進んでいないことをみても、"人体標本"に抵抗を感ずる人は多いのではないか。若い外科医の練習台になりたい人はどのくらいおられるのであろうか。

解剖学者である著者は、「時論」の結語に「・・・、Fresh Cadaver Dissectionは、工夫次第では研究成果を基礎講座にも還元するであろうし、今こそ医学部の看板になりうると考えている。」と述べている。小生は、著者の言う「今こそ医学部の看板」とは「今こそ医学部基礎講座の看板」と理解している。これが著者を動かしている"源"ではなかろうかと推測している。

読者の皆様、若き外科医を育成するためご自分を提供される心の準備はできておりますか?


(*)「白菊会」  医学生の解剖実習に用いられる献体希望者で運営されている組織。 コラムの著者も、学生時代4人で4体、解剖をさせていただいた。担当教官より、貴君らは「ブッチャー」になるために解剖実習するのではないと、常に、ご献体に接する態度を教育された。

(**)このコラムが完成した日の新聞('06/2/25)に次のような記事が掲載されていた。要約を記する。「ニューヨークの検察官事務所は23日、人体組織を遺体から勝手に摘出、移植用に売り飛ばしていた罪で、人体組織提供にかかわる会社社長、葬儀店経営者ら4人を起訴したと発表した。・・・、死亡診断書や臓器提供同意書を偽造し、骨、皮膚、腱、心臓弁などが合法的に摘出されたように見せかけて遺体から摘出した。葬儀経営者は1体あたり7000ドル、全体で数百万ドルを稼いでいたとう。・・・・・。」摘出された臓器の使用目的は異なるが、高価な商品となると必ず犯罪は起こる。本邦では起きないことを祈るばかりである。


 

 




vol. 1  医療の質  vol2 医療の質−その2 vol3 医療の質−その3
vol. 4  医師の心  vol5 医師の心−その2 vol6 看護婦さん
vol. 7  インターネット vol.8 職名 vol.9 戦争倫理学
vol.10  旬の過ぎたはなし−「ノーベル賞」 vol.11 「倫理」の変遷 vol.12 赤十字とナイチンゲール
vol.13 刑法第134条 vol.14 素人の教育論 vol.15 格付け
● vol.16 流行 vol.17 災害医療 vol.18 無題
● vol.19 シーベルトの娘:看護婦資格制度の黎明 vol.20 ユ・カンナラちゃんを偲ぶ vol.21 心蘇生
● vol.22 5年後の告知 vol.23 漢字の日 vol.24 評価

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