医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi


 
vol.24
  評 価 2006-2-14
 
 

                       伊達騒動

久しぶりにNHKの大河ドラマを観た。今年は、小生が敬愛する故・司馬遼太郎氏の「巧妙が辻」を脚色したドラマである。初回は63年の「花の生涯」であったと記憶している。井伊直弼、赤穂浪士、秀吉、源義経、上杉謙信、徳川家康、徳川慶喜など、日本人なら誰もが知っている歴史上の人物を主人公にしており人気を博した。小生にとって最も印象に残っている番組は、70年に放映された「樅の木は残った」という山本周五郎氏の作品であ。次週を待てず同名の小説を求め一気に読んだ。

徳川家康が江戸に幕府を開いてから約70年を経た1671年(寛文11年)、4代将軍徳川家綱の治世に仙台藩に起きた事件を題材にしている。伊達騒動あるいは寛文事件とも言われている"お家騒動"のことである。

仙台藩の藩祖は、徳川幕府成立に貢献した隻眼の伊達政宗であることはよく知られている。仙台藩第3代藩主伊達陸奥守綱宗(つなむね)は、江戸詰めの折、遊郭通いなどの不行跡を幕府に咎められ隠居を命じられた。伊達綱宗の子、亀千代が2歳で家督を相続し第4代藩主に就いた。藩主が幼いため、大叔父の伊達兵部と叔父の田村右京亮が幕府より後見役を仰せつけられた。

後見役の一人である伊達兵部は、縁戚にあたる幕府の重鎮である老中酒井雅楽頭と密約し仙台藩62万石を2分し、伊達兵部自身が30万石の大名になろうと目論だのである。伊達政宗の従兄弟にあたる伊達安芸は、その企みを阻止するため伊達兵部の"非"を藩の諸侯に訴えたが入れられず、最後の手段として幕府に伊達兵部に対する訴状を出したのである。伊達安芸の訴えが幕府に取り上げられ大老酒井雅楽頭の上屋敷で、関係者が一同に会し安芸の訴状を評定することになった。伊達安芸は、仙台藩"お取り潰し"の口実を幕府に与えるという罠に嵌ったのである。

1ヶ月余の評定で幼君の後見役の伊達兵部の「企て」が明白にり、訴人、伊達安芸に理があることが明らかになった。幕府に藩"お取り潰し"の口実を与えてしまったことに危機感をもった仙台藩の家老原田甲斐は、伊達兵部の悪事を暴いた訴人伊達安芸を評定場で斬殺するという挙にでた。訴人を亡き者にし"お家騒動"の吟味を不可能にしたのである。甲斐自身もその場で殺され、"お家騒動"は無かったものになった。

幕府は評定場の事件を単なる家臣団の不和による刃傷事件とし、事件が大老の上屋敷で起きたことのみを罪科とした。不和の原因の一方の伊達兵部は流罪、原田一族は死罪となった。幼君、竹千代にはお咎めなく仙台藩62万石は安泰、"お家騒動"に幕が引かれた。原田甲斐の願いは叶ったのである。甲斐は"驚きの手段"をもって仙台藩62万石を救った"忠臣"となった。 

数年後、書店で作者不詳、須賀 徳平訳の「伊達騒動(82年発行:教育社)」を目にした。多くの古文書を現代文に訳し伊達騒動を解説したものである。「再三にわたる訴状の吟味の結果、甲斐・兵部の罪状明白となり、仙台藩62万石は安泰となる」と記されていた。

伊達兵部は後見人、原田甲斐は家老の立場で幼君の暗殺を企てるなど藩の乗っ取りを図ったが、伊達安芸をはじめとする忠臣のためことごとく失敗、大老酒井雅楽頭の上屋敷での評定にも破れ、ついに甲斐は刃傷沙汰を起こした、と記されていた。他の記録も、"忠臣"伊達安芸,"逆臣"原田甲斐と断定しており、原田甲斐の分は悪い。

小生は、原田甲斐が「事態」を収めるためにとった手段に"うなった"。さらに、同じ出来事でも世の評価が全く異なることに驚きを感じた。長じた青年期に周五郎作品に衝撃を覚えた自身の"幼さ"に恥じ入いるが、以後、「事態」を理解し評価するに際し小生に多大な影響を与えた作品であることに間違いない。

 

 

 
vol.23
  漢字の日  2006-1-5
 
 

                    「愛」
12月12日は「漢字の日」であるという。(財)日本漢字能力検定協会が提唱し日本記念日協会が認定した記念日である。毎年「漢字の日」に「今年の漢字」が京都の清水寺で発表される。昨年の漢字は「愛」であった。全国から公募された8万5322通の内、4019通(4.71%)が「愛」であったという。過去10回は震、倒、毒、災など暗いイメージの字が殆どであった。新聞報道で知った。暗い話ばかりの今日であるが、何かしら「愛」を感じさせる出来事が多かったためなのか、反対に「愛」を渇望させる世相であったためなのかどちらかである。

「愛」という言葉について考えた。考えたといっても哲学的に思考した訳ではない。小生がいつごろ話題にした言葉なのか考えただけである。英語の講義であることを思い出した。今から40数年前である。「愛」にはloving- kindnessとloveがあり、前者は、おもいやり、親愛、情け、神の慈愛という意味で用ちいられる。後者は愛情、恋、恋愛という意味が濃く、「愛している」と口からでる「愛」は後者で、正確には「あなたを恋している」、「好きだ」というべきであるという。文字の「愛」は、「恋愛」や「恋」とは異趣の感を受ける。英語、米語はきめの細かさに欠ける感があるが、身体表現で補って目的を果たすという。以上は、英語の教授から講義で教えられた。

講義に用いられた教材は 、ウイリアム・サマーセット・モーム(William Somerset Maugham)が45歳のとき上梓した「月と六ペンス(The Moon and Sixpence)」である。放浪のすえタヒチで最後を迎えたフランスの画家、ゴーギャンの一生をモデルにした小説であることは、読者はすでにご存知じのことである。早速、世界文学全集(昭和40年、中央公論社発行)から中野好夫氏の訳になる「月と6ペンス」を開いた。

主人公は英国人チャールス・ストリックランド。仕事は株の仲買人。彼は、40歳で突然、平穏な家庭をすてパリで独り暮らしを始めた。ミセス・ストリックランドのエミイや周囲の人は、女性と駆け落ちしたと騒いだ。真相を知るため、作中、語り部として登場する作者のモームはパリに向かった。ストリックランドを探し出した。以下は、モームがストリックランドとパリで交わした会話である。

「ねえ、あなた、ぼくらをそうみくびるものじゃありませんよ。あなたがね、女の人と一緒に来ているくらいのことは、ちゃんと知ってますからね」
(略)
「ばかなやつだエミイてやつも」彼はにやりと笑った。だが、つぎの瞬間には、おそろしい冷笑に変わっていった。
「なんてけちな了見なんだろうねえ、女てやつは!愛だ。朝から晩まで愛だ。男が行ってしまえば、それはほかの女がほしいっからだと、そうしか考えられないんだからね、たかが女のためにやるなんて、ぼくをそんなばかな人間だと、きみ、考えているのかね?」
「じゃ、奥様を捨てておいでになったのは、女のためじゃないとおっしゃるんですか?」
「あたりまえさ」
(略)
「じゃ、いったいなんのために家出なんぞなすったんです?」
「絵が描きたいんだよ、ぼくは」
 ぼくは、長いあいだ、じっと彼の顔を見つめていた。気が狂ったのではないかとも思った。念のために言っておくが、ぼくなどまだまだ若造で、ぼくの目からは、彼などりっぱな中年男に見えていたのだ。
「でも、もう40でしょう、あなたは?」
「だからこそ、いよいよやらなくちゃだめだ、と決心したんだ」
(略)
「ぼくは言っているじゃないか、描かないではいられないんだと。自分でどうにもならないんのだ。水に落ちた人間は、泳ぎがうまかろうとまずかろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、おぼれ死ねばかりだ」


語り部モームはイギリスに帰り、ミセス・ストリックランドに報告した。婦人との会話を記す。

「お目にかかりましたがね。どうやら、絶対におかえりにならないつもりですねえ」
そしてぼくは、ちょっと間をおいて、また言った。
「絵をお書きにないたいんだそうですよ、ご主人は」
「なんですって?」ミセス・ストリックランドはとび上がらんばかりの驚きようだった。
(略)
ミセス・ストリックランドは、静かに僕ら三人を顧みて、言った。
「いいえ、あの人は決して帰って来やしませんわ」
(略)
「わたしね、もしあの人がだれか女とでも行っているのなら、まだ望みもあると思っていたの。そんなことが長続きするはずないの。三月もすれば、あきあきしてたまらなくるにきまっているわよ。でも、恋愛じゃないとしたら、なにもかももうおしまいだわ」
(略)
「さあ、よく分りませんが。こうゆうことなのですか?女のために奥様を捨てたというのなら許せるが、なにかある観念のために、そうしたというのは許せない、と。つまり、まえの場合ならば、奥様のほうにも打つ手があるが、もし後の場合ならば、なんとも手のうちようがないという」

ストリックランドは、「芸術の創造」を生きるための糧とし描き続け、タヒチで非業の最後を迎えた。捨てられた家族は、彼の「絵」で満たされた生活を送ることができた。小説の題名「月」は崇高なもの、「6ペンス」はとるに足らないものという意味に解されている。ストリックランドにとっては「芸術の創造」が崇高のもので、彼が捨て去った「愛」などはとるに足らないものなである。

小生は、人にとって大切なものは「愛」と言って間違いないと思うが、中年のストリックランドの「崇高を求める魂」に強烈な憧れを感ずる。小生も、まだやりたいことがある。もう「ストリックランド」になるのは無理なのだろうか。親しい友人に話したら、そうゆうことを「ないものねだり」と言うの、と軽くあしらわれた。



      

 
vol.22
  5年後の告知   2005-12-2
 
 

小生のコラムには「思い出」が多い。"あす"の話が少ない。精神生活が停滞しているためであろう。詰まるところ、精神の老齢化のためといってよい。"とし"は昔ばなしを多くする。くどくする。「その話、聞きましたよ」と、相手がいっても、平然と話し続ける。

小生が、敬愛する故・司馬遼太郎氏は、著書「風塵抄」のなかで"カセット人間"になるまいと述べている。以下、氏の文章を要約する。無断掲載はお許しいただく。

「ほとんどの人は、永く生きたようなつもりでいながら、じつは語るに足るほどの体験は数件ほどもない。短編小説として搾りとれば、三篇もできあがらない。後は日常の連続で、習慣と条件反射で人は暮らすのである。娯楽のすくなかった江戸期の農村のひとびとも、四十になれば自分の過去のできごとをくりかえし語って、死んで灰になるまで、語りつづけたはずである。もっとも当時はのどかで、『また、長六どんの十八番(おはこ)がはじまった』と笑いながら、きいてくれたかもしれない。(略) 老人としてくりかえすが、一個の人生は、ヤマ場だけいえば、数個のカセット・テープでしかない。しかし、感受性がゆたかであれば、世界と社会ほどおもしろいものはない。きょう一日の新聞だけで、無数の劇場を提供してくれているのに、私どもは無感動でいるだけである。」

小生は、"カセット人間"になることをことのほか恐れる。司馬氏の教えに習い新聞を読み、本を開き、人と会い議論をし、自身の研鑽に励んでいる積もりである。

小生のコラムの「思い出」には、何時も何かしら枕話がついている。"カセット人間"ではないと"りきん"でいるのである。結局、枕話はつけたしでありコラムは「長六どんの十八番(おはこ)」になってしまっているのではないかと不安な気持ちでいる。"十八番"が"十八番"で終わらないために"十八番"に、むりやり「普遍性」らしき話を押し込んでいる。これも、司馬氏から教わったことである。

枕話は、これで終わる。以下の文章とは関係ない。本題に入る。主題は「告知」である。よかれと思って伝えた一言が、一人の女性の人生を激変させた話である。始める。

小生の大学時代の友人であるM君にまつわる話である。住まいも近く、互いにスポーツをやっていたこともあり、仲が良かったのかどうかわわからぬが始終会っていた。いつも、口角に泡を飛ばし書生論を戦わしていた。

M君が、卒業まじかに"女性"と暮らし始めた。小生も知る人で、"すばらしい"という表現がすべての女性であった。時折、二人のアパートに招かれた。卒業試験、インターン、国家試験、初期研修、関連病院勤務など、互いの環境の変化で連絡が途絶えた。M君は、勤務医の道を選んだ。小生は大学に腰をすえた。M君の女性が「子宮ガン」の手術を受けたことを知人からきいた。

数年後、M君が勤務している病院に短い期間であるが出張した。早速、M君と女性から食卓に招かれた。雪の降る日であった。炬燵に入り、昔話を酒の肴に花を咲かせた。二人の出会い、隠れた生活、M君も女性も以前より饒舌に時間をすごした。女性が手術を受けたことには触れなかった。

M君が、ピアノを習っているという。音楽とは無縁であったはずのM君の心境を尋ねた。女性の顔が曇った。空気が重くなった。話題を捜した。暫くして、M君が口を開いた。

今月で、手術を受けてから5年過ぎた。子宮筋腫と言っていたが、子宮頚ガンで、子宮、卵巣、リンパ節、付属組織を全部取る手術をした。転移はなかった。5年すぎるまで結果は分らないので、黙っていた。安心した。もう大丈夫だ。M君は興奮してしゃべった。女性に伝えたかったのか、自分が苦しさから開放されたかったためなのか分らなかった。

俗に5年経てばと安心と言われている。良かった。小生は、杯を手にし、女性に目をやった。女性に笑顔はなかった。顔はこわばり目を細くし一点を凝視していた。瞬きもしなかった。状況がつかめなかった。女性はかぼそく何かをささやいていた。次第にささやきが涙声になった。聞こえるようになった。
 
生めないの。もう、子供を生めないの。誰の子も生めないのね。同じことを、何度も、何度も、何度も繰り返すだけであった。安心した。良かった。M君も何度も同じ事を口にするだけだった。しかし、M君の言葉は女性に届いていなかった。

小生は、どのような状況でM君の家を離れたか記憶にない。雪降る中、数時間かけて帰宅したことだけは覚えている。女性の気持ちを、来る日も来る日も、繰り返し繰り返し考えた。数ヶ月後、大学に戻る時期がきた。M君の家での出来事は、次第に記憶から薄れていった。
 
10年程前になろうか。出身大学で祭事があり出席した。M君も出席していた。話しかけた。昔の人とは付き合わないことにしている。話しかけないでもらいたい。会話を拒絶された。

知人が、M君は"女性"と離婚し,ピアノの先生と家庭を持ち、子をなしていると教えてくれた。「告知」は、事実を告げるだけのものではないことを勉強した。「告知」は、弱者を作ることを勉強した。「告知」は、思いやる気持ちが欠かせないことを勉強した。

「告知」は、難しいことを勉強した。それを言いたかった。

 


vol. 1  医療の質  vol2 医療の質−その2 vol3 医療の質−その3
vol. 4  医師の心  vol5 医師の心−その2 vol6 看護婦さん
vol. 7  インターネット vol.8 職名 vol.9 戦争倫理学
vol.10  旬の過ぎたはなし−「ノーベル賞」 vol.11 「倫理」の変遷 vol.12 赤十字とナイチンゲール
vol.13 刑法第134条 vol.14 素人の教育論 vol.15 格付け
● vol.16 流行 vol.17 災害医療 vol.18 無題
● vol.19 シーベルトの娘:看護婦資格制度の黎明 vol.20 ユ・カンナラちゃんを偲ぶ vol.21 心蘇生
● vol.25 人体標本の値段 vol.26 NBM:医療概念の変遷 vol.27 文化の日
● vol.28 喫煙と終末期医療

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