医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi


 
vol.18
  無題 2004-05-13
 
 

 小生が、医師になり卒業した大学の病院で外科の研修を始めたころの話である。手術室の医師控え室で、同僚とこれから始まる弁置換術についてあれこれ話をしていた。「今日、使う人工弁は幾らするのだろう」と同僚が話しかけてきた。「正確さを欠くが、90万から100万円ぐらいらしい。人工弁に使う糸もアメリカ製で、一本、5000円もするそうだ」と応えた。「いったい、今日の手術は全部でどのくらいかるのかな」など、学問的でない会話をしていた。そばで、パイプをくねらせていた手術部長である麻酔科の教授が、「君たち、場所をわきまえるなさい。医療費のことなどここで話すことではない」と、お叱りを受けた。医師は人を救うため全知全能を捧げよと、教えこまれていたこともあり、以後、医療にかかる費用は医師には関係のないことと関心を示すこともなかった。

 数ヶ月後、「大学の内科から地方の町立病院に派遣された医師が、白血病の患者に高額な点滴を連日使用し、町の健康保険の財政が逼迫してきたので、町長が医師を指導している大学の教授に善処を求めにいった」との話を聞いた。どのような顛末になったか分からないが、悩める人を救うにも「財政」という医師にはどうすることできない壁があることを知った。

 80年代の話である。40歳代の弁膜症の男性が循環器内科より紹介され、小生の外来に診察を受けにきた。データ、症状すべてが切迫した病状であることを示していた。手術の必要性を説いたが、頑なに手術を拒んだ。定期的に受診するよう薬を処方した。気持ちが変ることを期待し再来を促した。

 数ヶ月、通院した。少しずつではあるが、頑なに手術を拒む事情が分かった。2年ほど前、離婚し子供の養育費などにかなりの収入を必要としている。歩合制の仕事を休むわけには行かない。万が一のことがあれば、抱えているすべての問題を生命保険が解決してくれるので、いま働ければよい、いま体を動かせればよいという。まもなく、姿を見せなくなった。営業先で倒れたことを後で知った。説得できなかった非力さを悔やんだ。

 同じころの話である。足の指が壊死に陥り骨が露出しているミュージシャンが、外科より紹介されてきた。血流障害によるものと診断した。入院治療を勧めた。時間が作れないので、当分の間、外来治療となった。壊死は日に日に進んだ。感染も徐々に進んだ。ナースも入院を勧めたが無駄であった。

 ある日、突然、初老の婦人が小生を訪ねてきた。ミュージシャンの母親であるという。病状、予後を説明した。ミュージシャンは、名の知れたバンドリーダーで自分が休むことは、バンドが解散することにつながるので入院しないのではないかという。とにかく、最善の治療を受けるように説得すると母親は、病院を離れた。

 数日後、ミュージシャンに誰が母親に「指のこと」を話したのか問われた。誰が知らせたのか知らないが来院されたので、小生が状態を説明したと伝えた。翌日からミュージシャンは、姿を見せなくなった。テレビで、暫くはミュージシャンの元気な姿を見ることができた。その後のことは分からない。

 以上、三題は、薫風の季節にふさわしくない話であるが、小生の若いころからの知人が闘病生活を送っていることを知り、何もすることの出来ない自身の非力さを改めて知らされ、思い出を記した。他に目的はない。

 

 
vol.17
  災害医療
2004-01-14
 
 

                   『選別』

昨年の12月26日午前5時30分、イランの南東部にある古都バムでマグニチュード6.5の地震があったとこは記憶に新しい。人口9万7千人といわれる古都は壊滅状態で、死者3万1千人、負傷者2万2千人(1月8日、WHO発表)にも達するとも言われている。土を固めたレンガ作りの家の崩壊による圧死者が多く、救助の余地は殆どなかったと報道されている。

95年1月17日、午前5時46分、淡路島の野島活断層を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生した。阪神・淡路大地震である。神戸市では震度7の激震であった。家屋、ビルの倒壊、火災が相次ぎ、交通機関、電気、ガス、水道も寸断され市民生活は完全にマヒし、約30万人が避難生活を余儀なくされた。震災による直接の死者は5,488名で、当日の午前中に死亡した人は4,461人(81、3%)に達した。死因は窒息・圧死が4,224人(77,0%)と圧倒的に多く、4,320人(78,8%)が自宅で死亡したと報告されている(96年厚生省発表)。

昨年、小生が関係する学会で阪神・淡路大震災の経験を基にした「災害医療」の講演を聴く機会があった。被災状況が詳細に報告された。阪神・淡路大震災では、救助活動のためヘリコプターが出動したが(延べ1,336回:消防庁資料)、約80%の人が地震発生後約15分以内に圧死していたことが検証され、ヘリコプターが救命に寄与した度合いは高いとはいなかったようである。遺体を運搬していた可能性も否定できず、助けうる負傷者を医療機関に運搬していなかったこともあり得る。東海地震が話題になっている昨今、それを踏まえ、学会、国、都道府県、医師会等で「災害医療対策」が整備されてきていると報告された。

小生の手元に、大阪府医師会・救急医療部が2000年1月に発行した「災害時における医療施設の行動基準(第1版)」がある。災害発生後72時間以内の救急医療期・救出救助期の救命に関わる医療活動に関する行動に焦点を絞って活動基準が記されている。

災害医療の目標は、「負傷者の最大多数に対して、最良の結果を生み出す」ことである。この点が、「一人の患者に最良の結果をもたされなければならない」日常の医療行為とは大きく異なる。災害の急性期医療の評価は、「妥当な医療が行われたならば救命できたはずの死亡数の多少」を尺度としており、最大多数の至福を達成する唯一の目標は、助けうる負傷者を一人でも失わないようにすることである。

この目的を達成するため、災害医療の急性期では救命可能な人を優先し治療することが求められる。最初のプロセスとして救急隊員、救急救命士、先着医師による負傷者の選別(トリアージ)が行われる。トリアージが災害医療のスタートであり、以降の展開を左右する重要な行動である。治療や搬送に際し優先順位の高いものから、緊急治療群(I)、準緊急医療群(II)、非緊急医療群(III)、死亡群(0)に分けトリアージ(選別)が行われ、標識札(トリアージタッグ)が装着される。選別された負傷者は、以降、それに基づき次の医療が施される。トリアージタッグは、I:赤、II:黄、III:緑、0:黒とし、右手、左手、右足、左足の順に取り付けられることになっている。

災害現場の前線で行われるトリアージを一次トリアージ、篩い分けトリアージというが、トリアージを行う際の留意点が記されている

@対応できる医療資源を正しく評価する。
Aチームを組織化し、行動計画を練る。
B揺ぎないリーダーシップを発揮できる指揮官を選ぶ。
C一人の負傷者に時間を費やさない(一人の負傷者に1分以上かけてはならない:血圧
  計などの医療器械を用いず理学的所見のみで判断する)
D治療は気道の確保と外出血の止血のみで、それ以上の応急処置を行ってはならない(救護班でない)。
E「最も近い」「最も騒がしい」負傷者から、トリアージを開始しない。
F他人のトリアージを非難しない。

これらの点に留意し、「呼吸」「循環」「中枢神経」の順で負傷状態を評価するSTART(Simple Triage and Rapid Treatment)方式を用いトリアージを行うことを薦めている。一人の負傷者にのみ対応するのではなく、状況が刻々と変わる被災地で対応できる医療資源との兼ね合いで多数の負傷者に対し「神」の如くトリアージを行うわけであるから、トリアージを行う救急隊員、救急救命士、医師に課せられた任務は重く厳しい。

通常の医療では「告知と同意」「情報開示」なしには行われなくなりつつある現在でも、災害医療では可及的に多数の人を救うべく一人の医療人の判断で「告知と同意」「情報開示」なしに医療が開始されるわけであるから、「医療」という文言は同じでもその基盤は全く異なるのである。

多数の「救命」だけを目的とする「災害医療」は、一人の病める人に対する「心のケア、疼痛緩和」を中心に行われる「終末医療」とは対極におかれる「医療」といえる。医療人にとって行ってはならないとされている病める人に対する「選別」が最も重要である医療分野があることを知っていただきたいためこのコラムを記した。医療における「選別」は「災害医療」にとどめたいと願いつつ。

 



      

 
vol.16
  流行
 
 

医学・医療にも流行がある。先日、医学書の出版社より、近く刊行される書籍が収載されたパンフレットが送られてきた。「EBMの手法による肺癌診療ガイドライン」、「最新エビデンスに基づく胃がん診療ガイド」、「最新エビデンスに基づく乳がん診療ガイド」、「エビデンスに基づいた急性膵炎の診療ガイドライン」、「ヘリコバクター・ピロリ胃炎『エビデンスとプラクティス』」など、表題に「エビデンス」という文字がやたら目に付くのである。

紹介文を記す。「本書は、胃がん診療に関する最新のエビデンスを、六つのテーマに分けて整理したハンドブックである」、「乳がんに関するエビデンスを紹介した乳がん診療のガイドブックである」などと記されている。学会や研究会でも、「…という、エビデンスがあります」、「このエビデンスに基づき…」という発言を耳にすることが多い。行政に関する書籍でも、「Evidence Based Health Policy Making(証拠に基づいた健康政策策定)」とか「健康作りの総合対策に…、どのような成果が得られたかをEvidence- based Medicineの視点より…」というように、今は、「エビデンス」「EBM :Evidence-based Medicine」という言葉が、医学・医療界に満ち溢れている。

「エビデンス(evidence)」は辞書には「証拠」と記されているが、「科学的根拠」と訳されることもある。「EBM」は「(有効であるという確かな)証拠に基づいた医療」、「(有効であるという確かな)科学的根拠に基づいた医療」という意味である。では、今日の医療が「証拠に基づいた医療」なら、今まではなんに基づいた医療だったのであろうか。どこが違うのであろうか。気になるのは、小生だけではないと思う。

医師自身は、従来から「確たる根拠に基づいた医療」を行っていたと思っている、していたはずである。しかし「解説書」によれば、今までは病気の発生機序を理論的・科学的に考えそれを根拠に用いる薬が「効くはずである」、病気が「治るはずである」と医師個人の原理的・理論的な専門知識と治療経験により医療は行われていた。理論的にその薬が「効くはずである」ということと、実際にその薬で「病気が治る」こととは同一ではないという。必ずしもその「有効性」が証明された医療を行っていなかったということになる。扱う病気は同じでも、患者が異なり診療する医師が異なれば検査・治療は異なるのは当然であるという医師の「自由裁量権」の名のもと、長年、医療は行われてきた。極端にいえば、「独りよがりの医療」でも、結果がよければ受け入れられてきたのである。それが今までの医療の主流であった。

「EBM」という言葉が初めて医学で用いられたには1991年のことで、カナダのGordon Guyattの短い論文に端を発するといわれている。10年ほど前、日本に上陸し、またたくまに流行し、今では日常的に用いられている。

「有効であるという確かな『証拠』に基づく医療」というのであるからには、その「証拠」はどのようにして求められるのであろうか。現在では、最も信頼性の高い「証拠」は、統計学的手法(ランダム化:無差別比較試験)によって得られるとされている。患者に、無差別に選択した−くじ引きでも良い−治療を行いその結果を他の治療成績と統計学的に比較し、高い確率で患者に良い結果をもたらす医療が「証拠に基づく医療」、「科学的根拠に基づく医療」という。

初めて「EBM」の概念に接した医師は、どんな医療にせよ「理」にかなった治療、患者のためになる医療をすることは当然のことで、いまさら−と思うであろうが、医療全体に与える影響はかなり大きいといわれている。手元にある福井次矢氏著「EBM 実践ガイド」には、次のように記されている。「EBM」を行うことは、@偶然性の強い個人的経験・観察に基づく医療から、体系的に観察・収集されたデータに基づく医療への転換を意味する。A基礎医学的知識や病態生理学的原理を臨床に応用すればよいという考えから、患者から得られたデータを最重視する姿勢への転換―現在の生物学的知識の不完全さを認識すること−を意味する。B客観的なデータに基づかない、エキスパートの個人的経験や直感に依存した意見よりも、第三者によって客観的に評価されたデータを重要することの正当性を認めること意味する。C新しい検査・治療法の有用性を評価するには、従来のように知識と技量を重視する徒弟的臨床研修では不十分で、文献収集のためのコンピューターの知識・使用法の習得、それに論文の妥当性・信頼性を評価するための臨床疫学、生物統計学的知識が必要なことを認めることになる。

今までの医療界を支配してきた「エキスパートを任じている医師の理論に基づく(治るはずであるという)医療」から、「治ることが証明されている治療を的確に患者に供する医療」へと考え方をシフトさせなければならない。著者は、「医療開示」、「告知と同意」など今の医療を取り巻く社会状況に医療に携わる者すべてが誠実に対応するためには、医療界を支配してきた従来の思考方法の変革が必須であると述べている。

病める人を治すことは医師の使命であり、現在、最善といわれる「EBM」は当然と受け入れなければならないが、「医師の理論性」が完全に否定されないまでも重きを置かれなくなってきているばかりか、「医師の裁量権」も狭まれてきていることは医師にとっては寂しいことである。しかし、従来の医療を、医師、自らが是正し新たな概念の医療を行うようになったのであるから、若干、救われた気持ちでいるのである。

「生物学的知識の不完全さ」を「従来の医療」は医師個人の理論・経験で補い、「EBM」は第三者によって統計学的に良いと評価された治療結果で補うのであるから、「不完全さ」を「何か」で補うという点では同じである。しかし、「有効であるという確かな証拠」で「不完全さ」を補う「EBM」が、患者にとって利益になることは容易に理解できる。

「エビデンスに基づく医療」を、「本に載っている美味しそうな料理を選んで提供する」という意味で"cookbook(料理の本)医療"という人もいるが、治療を受ける患者の立場からは、「最適な医療」を科学的な手段で選択、提供されるのであるから評価されよう。料理は美味しければ良いのである。患者は治れば良いのである。

しかし、「生物学的知識の不完全さ」を「有効であるという確かな証拠」で補っても、"cookbook医療"と揶揄されるように、「出来の良い治療」であっても「出来あいの治療」を「患者」に提供することにかわりはない。出された料理と違って、患者は、治療のどれかを選ばなくてはならないのであるから、結局、「出来あいの治療」を押し付けられることになる。「これが一番良い治療と認められているのです。科学的に証明されています。現在、これしかないのです」と。

医療は患者中心に行うべきであることは承知しているが、患者に「出来あいの治療」を見繕って提供する医療は、医師に知的満足を与えてくれない。かつて、このコラム(Vol.1)で、今日、「高い医療の質」の定義が「開発型の医療」から「ごく普通の医療を普通に行うこと」に変わったことを記したが、「普通の医療」とは、「EBM」のことを指しているのである。

「EBM」は、「生物学的知識の不完全さ」を補う最も良い方法として生まれた医療であるが、一流ブランドのレディーメイドかハーフ・レディーメイドの服を見繕って着せるのと同じであると思っている。結局、「生物学的知識の不完全さ」が解決されない限り、究極的な患者本位の医療は望めないのである。

「ヒト遺伝子情報」が解読された今、より根源的な「生物学的知識」が豊富になり病態生理が理解されるにつれ、「新たな医療」が生まれ流行するであろう。テイラーメイド(オーダーメイド)医療もその一つである。僅かではあるが胎動の兆しが感じられる。

さあ、勉強しよう。流行に遅れないために。


vol. 1  医療の質  vol2 医療の質−その2 vol3 医療の質−その3
vol. 4  医師の心  vol5 医師の心−その2 vol6 看護婦さん
vol. 7  インターネット vol.8 職名 vol.9 戦争倫理学
vol.10  旬の過ぎたはなし−「ノーベル賞」 vol.11 「倫理」の変遷 vol.12 赤十字とナイチンゲール
vol.13 刑法第134条 vol.14 素人の教育論 vol.15 格付け
● vol.19 シーベルトの娘:看護婦資格制度の黎明 vol.20 ユ・カンナラちゃんを偲ぶ vol.21 心蘇生
● vol.22 5年後の告知 vol.23 漢字の日 vol.24 評価
● vol.25 人体標本の値段 vol.26 NBM:医療概念の変遷 vol.27 文化の日
● vol.28 喫煙と終末
期医療

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