医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi


 
vol.15
  格付け 2003-10-11
 
 

今年の二月、フランスでレストランのオーナーシェフが自ら命を断った。フランスのグルメ誌「ゴー・ミョー」の"格下げ"が直接の原因のようである。他にも原因があったようであるが、命を断ったオーナーシェフは、まさに、命をかけて「味」を作りだしていたと言える。「ミシュラン」という言葉を聞いたことのある人は多いはずである。フランスのレストランを"星いくつ"で"格付け"している「ガイドブック」の名前である。日本のバブル期に「ミシュラン」の"星いくつ"という表現が、グルメだけではなく一般の人たちにも広く知られるようになった。毎年発刊される「ミシュラン・ガイドブック」は、現在はレストラン・ガイドブックとして知られているが、当初(1900年)は、フランスのタイヤメーカーである「ミシュラン」が、自動車や2輪車(自転車)のドライバー向けに、主要都市からの距離、郵便局・電話の有無、ホテル・ガソリンスタンド・自動車修理工場などの所在地を町ごとに紹介するほか、タイヤのチューブ交換、空気圧の調整方法などを掲載したユーザーの手引書であった。

1923年、いくつかの大都市のレストランを紹介するようになり、1931年、現在のようなスタイルの"格付け"になり1ツ星、2ツ星、3ツ星レストランが誕生した。2002年版「ミシュラン」に掲載されたフランスのレストラン4100店の内、3ツ星レストランは23軒と極めて少ない。"格付け"がどのようにして行われるのか裏側は一切謎である。しかし、シェフの作り出す「味」が"要"であることは確かである。歴史といい、謎めいた"格付け"といい、それだけ、格が高い"格付け"といえる。

さて、医療機関(病院)の"各付け"である。以前から"良い病院"、"良いお医者さん"、"はやる病院"など医事評論家やルポライターが、自身の人脈や判断で"各付け"した本が散見された。選定基準が明確でなく、医療関係者でなくとも「はて?」と思う"各付け"が多く、信憑性に欠け話題にはならなかった。

医療の質の向上が叫ばれている時代を背景に、病院を第3者の立場から客観的に評価する必要性が高まり、1995年、「(財)日本医療機能評価機構」という「病院の機構」を評価する組織が旧厚生省、医師会、病院協会など多くの関係団体の出資で発足した。評価は調査項目を5段階に評価し、すべての項目の評点が3以上ならば「認定書」が交付される。今年の8月現在、9239病院のうち1000の病院が認定されている。この評価は病院を"格付け(ランク付け)"することを目的としたものではないが、査定内容を公表している施設の評点を合計し、病院を"ランク付け(格付け)"することができる。 昨年、大手新聞社の関連誌から"よい病院ベスト100"として、得点順に病院名が公表された。今までにない客観的な評価、"格付けシステム"が登場したといえる。

病院を第3者が評価することは以前にはできなかったことでもあり特筆されることであるが、評価が第3者機関によるものといっても医療関係者の団体であること、医療過誤が評価の対象に入っていないことなど問題が指摘されている。この「評価機構」による評価は、病院が良質の医療を提供することができる機構かどうかを評価しているもので、医療のアウトカム、医師の能力・技量を評価するものではない。レストランでたとえるならば、店の雰囲気、厨房の清潔度、材料の仕入れ・保存システム、接客などを評価の対象にしているもので、その店の「料理」、シェフを評価するものではない。

昨年、労働厚生省は診療報酬の算定に施設基準を導入した。手術数が一定数になると死亡率が一定に落ち着くという統計結果に基づき、施設基準の要件の中に「難度の高い手術」に、「年間、何例以上」という「数の基準(施設基準)」を設け、要件を満たさない病院にはその手術の診療報酬を3割カットするというものである。病院が給付を10割を受けるには、対象となる手術数が基準を上回っていることを届けなければならないので、その病院の「難度の高い手術」件数がわかる仕組みになっている。前出の関連誌から、「手術数でわかるいい病院」としてシリーズで掲載されている。基準が厳しすぎる、基準が妥当でないなど医療関係者からクレームが出ているが、それは診療報酬の算定基準に対してであり検討の余地はあるかもしれないが、結果として各病院の「手術数」が知りうるようになった。このことは日本の医療のあり方、手術のあり方を改革し、医療の質を高めることにつながり、時間とともに客観的な病院の"格付け"になろう。手術成績の良い病院には多くの患者が集まり、ひいては、病院、術者の"評価"、"格付け"になる。手術数が基準に満たない施設は自然に淘汰されるであろう。

提供される医療の担い手の中核にいる医師の"格付け"が公的機関ではないが行われている。世界の企業・個人に名医を紹介するサービスをしているアメリカの企業、「ベスト・ドクターズ社」が日本でも名医の紹介サービスを始めた。アメリカの有名メディカルスクールの教授陣が日本の医師70人を選定、その70人が候補者3000人をリストアップし、各専門分野の医師に6段階評価してもらい、企業・個人に有料で情報を提供するというものである。病院の株式会社参入や私的医療保険制度が導入された場合、クローズドの感は否めないが名医紹介システムは活況を呈するであろう。

ぬるま湯に浸かっていた日本の医療機関、医師の"格付け"が、進んでいることを示した。医療機関(病院)が高質なサービスを安定して提供し続けることが"高い格"の評価を得ることになる。本来なら医師をはじめ医療人の自助努力により高質な医療を提供しなければならないが、医師自身は、いつでも高い質の医療を提供することができるがそれを妨げるのは厚生労働省であり、現行の医療制度と思っている。「第3者による評価」、「施設基準導入による評価」など周囲の圧力で徐々に顧客(国民)の要望に応えるシステムになりつつあるが、医師は医療制度や質は自身が決めるものと外圧に抵抗している。

"格付け"は、第3者がするもので自からするものではない。顧客に満足するサービスを提供することができ、初めて評価されるのである。医師には、居心地の悪い世の中になってきている。

 
vol.14
  素人の教育論
2003-08-14
 
 

「不羈(ふき)」は辞書には、「物事にしばられず自由気ままなようす」、「才能が優れていておさえつけられないこと」と記されている。「奔放不羈」、「不羈の才」という用いられ方をする。「羈」は「しばりつける」という意味である。「不羈」は「奔放不羈」の意味が強いと思っている。

小生が、田舎にいた24,5年前のことである。友人より幼犬をもらった。ディズニーの映画、「101匹わんちゃん大行進」に出てくるダルメシアンという白に黒の水玉模様の猟犬である。可愛い。次郎という名をつけた。溺愛した。50坪ほどの庭に金網をめぐらし、放し飼いにした。首輪は、散歩に行くときだけ用いた。

次郎は、晴の日も、雨の日も、雪の日も、庭を駆け廻り育った。躾もしなかった。芸も教えなかった。幼犬のときは、幼稚園児であった子供と遊んだ。近所の人気を集めた。大きく、逞しく育った。女性や子供の手に負えなくなった。小生だけが相手にすることができた。周囲は、次郎を怖がるようになった。誰も寄りつかなくなった。「猛犬」といわれるようになった。

次郎には、怖いものがあった。花火の音である。花火の音がすると、狂ったように庭を駆け巡り、縁の下に身を隠し震えていた。金網を食いちぎり脱出するようになった。囲いを飛び越え脱走するようになった。首輪をつけた。顔が首より小さく首輪は役に立たなかった。

小生の勤務先に電話がはいった。家人からであった。次郎が庭から飛び出し車に跳ねられた。獣医から薬殺をすすめられた。お願いした。涙を抑えることができなかった。2年半の命であった。近くの墓地に埋葬した。書架にある次郎の写真が、当時を思い出させる。

「馴致(じゅんち)」という言葉がある。辞書には「なれさせること」、「なじませて次第にあることに達するようにすること」とある。

愛犬の死後、まもなく東京に転居した。ひとつがいのセキセイインコの雛を求めた。すり餌で育てた。すり餌から粟の実になり、かごの中を飛びまわるようになった。水浴びもさせた。オスの「青」が死んだ。メスの「ピー子」だけになった。一日中、さほど大きくない鳥かごの中で、楽しそうにさえずり飛びまわった。手に乗せ餌をやった。「止まり木」で回転する芸も覚えた。十数年たった。ピー子は、止まり木に止まれなくなった。目も見えなくなった。すり餌をやった。水差で水をやった。羽も閉じることができなくなった。首も支えることができなくなった。羽を広げ、首を横にし、かごの底で腹ばいになり一日を過ごした。冬の朝、冷たくなっていた。庭に葬った。

この二題は、子供の小学校の「父兄会誌」に掲載された小生の文章を再現したものである。掲載された時は、2羽とも元気であった。「児童の教育」について小生の雑駁な考えを、身近な出来事で述べた積もりである。父兄に理解されたかどうかはわからない。

「不羈」、「馴致」という言葉は、後年、司馬遼太郎氏の書物で知った。「不羈」のままでは現代は生きていけない。社会に「馴致」すればそれなりの世界が待っている。「なじませて次第にあることに達するようにすること」という意味であるから、「馴致」は「教育」と解しても良い。

小生の手元に、「教育学部:人生を語れる先生こそ」と題した新聞のコラムの切り抜きがある。教育学者の渋谷教授の持論が載っている。「教育とはもともと、法律や税金と同じように、生まれてきた人間に対する不自然な強制だ」といっている。この渋谷教授の文章は、不登校や勉強嫌いの子に接する教師の考えに対するものである。教育は、「なじませる」こと、「達するようにする」ことを目的としている。必ず強制が伴う。今日、「個性を伸ばす教育」が叫ばれているが、「不羈になれ」という一方、「馴致されよ」と相反することを要求していると、小生は思っている。

「馴致」が必要なことは理解できる。そうでなければ社会がもたない。軋轢が絶えない。「馴致」は安定を生む。「不羈」は不幸を生むが、小生は「不羈」を好む。「不羈」の人が、自らの力で「不羈の才」の人になりえる社会、環境が好きだ。「不羈の才」を生む社会、環境とはどんなものか小生には分からない。歴史は、社会の混乱期に「不羈の人」が排出ることを示している。幕末の坂本竜馬もその一人である。司馬遼太郎氏から教えられた。

「父兄会誌」に文章を寄せてから20数年経った。小生の子供は「奔放不羈」の…、原稿の余白がなくなった。コラムを終えなければならない。「教育」は難しいことをいいたかった。

 



      

 
vol.13
  刑法第134条
2003-7-22
 
 

「医師、薬剤師、医療品販売業者、助産師、弁護士、公証人又はこの職に在った者が、正当な理由がないのに、その業務上取扱ったことにより知り得た人の秘密を、漏らした時は、6月以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。」

これは、「秘密漏示」に関する刑法、第134条、第1項の条文である。指定職に在る者に「守秘義務」を課している。「ヒポクラテスの誓い」に『医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。』という一節がある。これは、「倫理」に属することである。小生は、「守秘」は医療人にとって「法」や「倫理」以前の問題と思っていたが、「守秘」について未だ解決していない問題がある。一本の電話から話を始める。

数年前、小山内隆子さんという35歳の2児の母親から電話があった。小山内隆子さんは小生の極めて親しい知人のお子さんである。知人の名は山田貴美子さん。58歳の寡婦である。二人は親子になる。山田貴美子さんには32歳になる独身のご長男がおられる。小山内家族は、母親の家から2時間ほど離れた郊外に住んでいる。

電話は、小山内隆子さんのご主人、小山内道夫さんが脳腫瘍と診断され治療方針を決めなければならない。意見を伺いたいというものであった。小生の勤務先の病院にこられた。同僚の脳外科医に同席してもらった。

38歳のご主人、小山内道夫さんは頭痛のためCT検査を受け脳腫瘍と診断された。腫瘍は大脳半球から脳幹部に及ぶもので、手術は危険を伴う、放射線治療にも限界がある。数ヶ月の命と担当医から言われた。CTを見て同僚の脳外科医は唸った。保存療法がよい。いずれ意識障害が出てくるので、苦痛は伴わない。残された日は6カ月、といって席をたった。

小山内隆子さんが口を開いた。残った日を家族だけで楽しく過ごしたい。意識がなくなるのなら主人に病気を知らせたくない。お願いがある。どなたにも主人のことは話さないでいただきたい。私以外の人が知らないようにしていただきたい。ことに、母親には。一瞬、肉親に知られないことのほうが難しいと思った。「無論、どなたにも話しません。」と答えた。

小山内隆子さんの母親は、数年前亡くなられたご主人が医師で医療関係者に大勢の知り合いがおられた。小生もその一人である。娘のためなら、どんなことでもすることは容易に想像できた。母親、山田貴美子さんが知ればいずれかは娘の夫も知る事態になることは確かなことであった。

その後、幾度となく小山内隆子さんの母親にお会いする機会があった。「最近、娘夫婦が来なくなった。家を建てたのなら、呼ぶべきよね。何かあったのかしら。知らない?」と寂しそうに語りかけてきた。小生は、黙って聞くだけであった。

数ヶ月が過ぎた。12月25日の朝、小生宅の電話が鳴った。「道夫が、今日の未明、亡くなりました。後日、挨拶に伺います。」と、小山内隆子さんの母親からの電話であった。
その後、母親からの連絡はなかった。夫を亡くした小山内隆子さんが挨拶にこられた。顛末を話された。

ステロイド剤で頭痛はなくなり、家族4人で楽しく過ごすことができた。薬の副作用でうつ状態、糖尿病となり入院生活が断続的に続いた。そのため、主人に脳腫瘍と気がつかれなかった。クリスマスイブを自宅で過ごした。パーティーの最中、突然意志がなくなり帰らぬ人となった。

本当に幸せな半年であった。主人は勤めのときは子供たちと遊ぶ時間もなかったが、病気をしてから初めて一家団欒の生活ができた。主人も悔いはなかったと思っている。涙で語った。

葬儀はご主人の親族、関係者で済ませた。小山内隆子さんの母親、親族は参列しなかった。
娘と母親は断絶した。一年後、母親の山田貴美子さんが骨折で入院された。がんの骨転移であった。入院してからも面会謝絶をとうした。ご子息が最期を看取った。病院からのお見送りは、残されたご長男と小生だけで行った。ご長男も義兄、小山内道夫さんの病気の相談を小生が受けたことを知らなかった。重い気持ちで手伝たった。

小生は当然のことをした、残される若い奥様の気持ちを優先させたと、今でも自身を納得させている。しかし、娘の夫が亡くなるまで娘に知らされずこの世を去った母親の気持ちを思うと,「守秘」が解らなくなる。「守秘」が,幸せ守り、悲劇を作った。


vol. 1  医療の質  vol2 医療の質−その2 vol3 医療の質−その3
vol. 4  医師の心  vol5 医師の心−その2 vol6 看護婦さん
vol. 7  インターネット vol.8 職名 vol.9 戦争倫理学
vol.10  旬の過ぎたはなし−「ノーベル賞」 vol.11 「倫理」の変遷 vol.12 赤十字とナイチンゲール
● vol.16 流行 vol.17 災害医療 vol.18 無題
● vol.19 シーベルトの娘:看護婦資格制度の黎明 vol.20 ユ・カンナラちゃんを偲ぶ vol.21 心蘇生
● vol.22 5年後の告知 vol.23 漢字の日 vol.24 評価
● vol.25 人体標本の値段 vol.26 NBM:医療概念の変遷 vol.27 文化の日
● vol.28 喫煙と終末期医療

 

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