市民の眼        尾崎 雄 Ozaki Takeshi


 
vol.15
 

「旬なスポット、六本木ヒルズ」は“バブル”の丘?

2003-6-12
 

 5月末、東北地方に旅行した折りあるJR駅で「六本木ヒルズ・ツアー」募集ポスターを見た。それにつられ久しぶりに六本木を訪れた私は仰天した。壮大なるコンクリート・ジャングルが忽然と出現。若いころ通い詰め私の頭にインプリントされていた旧い六本木地図は全く役に立たなくなっていたからである。「ヒルズ」の詳細についてはマスコミ報道に譲ろう。私の結論は、良くも悪くも「もういちど行って見たい東京の新名所」である。

珍しい風物との出会いと非日常的な体験による興奮が治まったあと冷静な思考が蘇る。六本木ヒルズという異郷も、3時間も歩くとエトランゼは「いったい、これは何なんだ?」という疑問を持つ。これは、“バブル”の再生産ではないかと。前世紀の遺物なのだ。それに気づいたのはメインタワーのトイレに入ったとき。窮屈なアプローチと狭いトイレのドア。車椅子利用者にとって、使いやすいとは思えぬ設計になっていた。すなわち21世紀のまちづくりの基本理念であるユニバーサル・デザイン(障害のある人もない人も誰でも不自由なく使える配慮)の理念が欠落しているように見受けられた。私は『日経バリアフリー・ガイドブック』開発責任者だったから、こういう点には目ざといのである。

エリア内にはほとんど樹木が見当たらない。ほんの申し訳程度の庭園らしきスペースや街路樹があり、花も植えてあるが、それは、むしろ「開発」による環境破壊の凄まじさを印象づける。ここのまちづくりの本質は「環境と弱者への配慮を欠いた20世紀型の巨大都市開発」なのだ。21世紀の大都市においては、まちづくりの原則は自然再生だと私は思う。緑なき巨大なコンクリート・ジャングル、六本木ヒルズは真夏になれば焦熱の丘と化すだろう。建設官僚だった前横浜市長は称して横浜・桜木町周辺に人工砂漠を造った。東京の民間デベロッパーは六本木ヒルズにコンクリート・ジャングルを“開発”した。私は4月に高野山に遊んだ。森に包まれた聖都はコンビニ1軒探すのも苦労するような不便さがあった。だが、それを補って余りある安らぎを得たのも事実である。なぜ日本人はワシントンD.C.のような緑に包まれた町に目を向けず、ニューヨークのようなコンクリート・ジャングルに憧れるのだろうか。

近代医学はハイテクとそれを支える経済力によって患部や病気の治療に専念した結果、難病克服の目的を果たしつつある。だが、その一方で、人間を身体と心の総体としてとらえ、患者を人間として接する全人的医療の影が薄くなっている。そのギャップは広がるばかりだ。人間のためのまちづくりのはずだった「都市再開発」も開発手法の高度化と人間不在の思想によって医療と同じ道筋を辿っている――横浜の陋居へ帰る途上、そんなことを考えてしまった。

             (2003年6月7日、尾崎 雄=老・病・死を考える会世話人)

 
 
vol. 14
  大学教授になって11ヶ月。急逝したAさんを悼む
2003-6-12
 
 

3月28日、全国紙の編集委員から大学教授に転進して亡くなったA氏のお別れ会に参列しました。A氏は昨年4月、文化部編集委員を辞して関西の私大教授に就任。今年2月、単身赴任先の大阪で吐血し、奥様が駆けつけて病院に担ぎ込み手術をしたものの同月27日に逝去しました。享年58歳。死因は胃潰瘍の出血多量による多臓器不全でした。

お別れ会には故人の交際の広さを物語るように各界名士が多数駆けつけました。ダークダックスとボニージャックスがそれぞれ一曲、この日芸術院賞と恩賜賞をダブル受賞した邦楽家、芝祐靖が笛の演奏を霊前に捧げた、と書けばその広がりと雰囲気が想像できるでしょう。京都・嵯峨野の寂庵から瀬戸内寂聴さんが書き送ってきた追悼文は、読み応えのある短編小説のようでした。追悼挨拶の締めくくりは国際交流協会理事長。送る言葉の多くは一様に故人の猛烈な仕事人間ぶりに驚嘆し、それを止められなかった無念さがにじんでいました。家族が救急車を呼ぶと「まだ仕事が一つ残っているから、待て」と制したというエピソード。人一倍社業をこなしながら文壇、芸能界、放送界、メセナ……と八方に義理を欠かさなかった故人の人柄が髣髴されます。

「とにかく面倒見がいい人」「頼まれると嫌といえない性格」と、著名人たちは口を揃えていました。A氏と同じ新聞社に居た私は彼のお陰で原稿をモノにできた思い出が何度もあります。引き受けたら自分との妥協を許さずトップギアのまま走り続ける仕事人間がいますが、A氏はそのタイプでした。新聞記者時代に各界から引き受けた社会的な仕事プラス大学の講義および諸委員会など校務を目一杯抱え込み、ギアチェンジせずに真正面から取り組んでいたはずです。ただ、そこは一般社会の常識が通じない大学という異界。過剰にエネルギーを奪い取られ、仕事に「忙殺」されてしまったのではないでしょうか。

私が知るお別れ会としては最も“豪華”で心のこもった集いではあったものの、私は、いまひとつ納得できぬ思いで立ちすくんでいました。その思いが頂点に達したのは、未亡人が挨拶に立ったときです。その言葉は私の心に突き刺さりました。

「もっと気をつけてあげれば、こんなことにはならなかったはず。ああしていれば、こうしていれば、生きていたかもしれません。できることなら、もう一度最後の一ヶ月をやり直したいと思います」。遺族の心の傷は深かろうと、心配でなりません。

本人の命を奪い、家族にそんな悔しさを強いる「仕事」とは? 「仕事って自分の命や家族よりも価値があると思いますか」。会場で顔を合わせた新聞関係者の一人に尋ねると「それは、彼を突き動かす何かだったと思います」と真顔で答えてくれました。

奇しくも、私はA氏と同時に別の女子大に教授職を得ました。A氏は1年を待たず亡くなり、私はまだ生きています。ただ、大学教授は本日、3月31日限りで辞めます。その理由は一言では語れませんが、非常勤講師を2年やり、何か「予感」がしたため1年で教授の仕事を返上しようと決意したのです。それにしても「仕事」って、いったい何でしょう。皆さんは、どう思いますか?            
               
               (3月31日、仙台白百合女子大学教授 尾崎 雄)

 
vol. 13
  旅だち―ある女子大の卒業式にて
2003-3-22
 
 

2003年3月15日、私が勤務する仙台白百合女子大学の第4回生卒業式が行われた。カトリックのミッションスクールなので卒業式は賛美歌の合唱と神父の説教を中心に進められる。聖書の一節「一粒の麦、死なずば…」朗読に続いて仙台教区のカトリック司教が次のような説教をした。

「人間の一人一人は一粒一粒の麦が実を結ぶように、みんな違う。人々がみんな一緒に何かをするというのは間違いである。人間は一人一人、それぞれが自分のなすべきことをなすべきである」。それは、みんなで渡れば怖くない式の生き方をやめ、これからは「自らの『個』を貫く人生を歩め」というメッセージである。また、キリストが最期の晩餐のとき弟子たちにパンを与えながら「とって食べなさい。これは私の身体である」と言った一節を引いて、こう説いた。「あなた方はこれまで教員の身体(教え、経験)を食べて成長しました。だが、これからは自分以外の人たちに自分の身体を食べさせなければいけません。すなわち、自分の身体を人のために食べさせる人間を大人と呼ぶのです。歳を取っても人の身体を食べてばかりいる人間は大人ではありません」。世の「先生」と呼ばれるすべての人たちに聞かせたい言葉だ。

厳粛な儀式が終わると女子学生たちは黒いガウンを脱ぎ捨てて豹変する。ホテルの大広間で開かれた卒業パーティは色鮮やかな振袖、袴、パーティドレスの百花繚乱。招かれた教員たちは、女に変身した教え子たちの姿に戸惑い、「先生。一緒に記念写真を」と声をかけられて、我に帰る。宴の開会を境に学生と教員との間にあった壁は取り払われるのだ。

宴たけなわ、教員は舞台に上げられ1列に並んで花束贈呈を受ける。私は卒論を指導したAさんから花束を戴いた。彼女は私が所属する総合福祉学科で最優秀の成績を修めた学生の一人である。卒論テーマは「ターミナルケアで果たすべき介護福祉士の役割」だった。就職が内定した医療法人で研修を受けている最中だとか。就職内定率は80%を超えているが、まだ就職活動中の者もいる。彼女らを、私は「人生は長い。あせらずにスローライフで行こう」と励ました。珊瑚色のパーティドレスをキュートに着こなした一人は元気に答えた。「私、警察官になりたいんです。今年は試験に落ちたけれど頑張ります」。閉会時間が迫るころ「私を覚えていますか?」と、人間発達学科の一人が話し掛けてきた。私の「死生学」を受講したが、怪我で長期欠席していたNさんだ。看護学校の試験に落ちたという。怪我の後遺症が長引き心身ともに疲れている。病状と将来に関する悩みに耳を傾け、必要なら私が信頼する医師を紹介する、と元気づけた。華やかな女子大の卒業パーティには歓喜、解放感、希望、将来への挑戦そして不確実な明日への不安……と様々な未来が渦巻いている。その夜、私は教え子から貰った花束を大事に抱えて東京行きの東北新幹線に乗り、横浜の自宅を目指した。

「卒業は、それまでの自分との別れ」(司教の言葉)。私の3年間の大学教員生活は、このように終止符を打ったのである。

                              (仙台白百合女子大学教授 尾崎 雄)

 

 


vol. 1 草の根福祉の担い手  マドンナたちの後継者は?  
● vol. 2 在宅ホスピス普及の鍵を握る専門看護婦に資格と社会的地位を
  
● vol. 3 <NY“脱出”速報>


vol. 4 ホスピス・ケアはアジアでも「在宅」の波?  
vol. 5 青年医師の決断  −ニューヨークのテロから学んだこと−
vol. 6 「恐い先生」と「やさしい先生」 −東京女子医大の医療事故隠蔽事件のニュースから−


vol. 7 「9.11」のニューヨークから4ヶ月−生還者たちの様々な思い−
vol. 8 介護保険で介護負担感は軽くなったか?−サービス利用料が増えれば実感がわく?−
vol. 9 在宅ターミナル・ケア25年。先駆者、鈴木荘一医師の軌跡


vol.10 訪問看護婦、ホスピスナースは「ハードボイルド」だ!?
vol.11 車の片輪で走り出した高齢者福祉? 成年後見制度 日独の違い
vol.12 東北大学が生んだもう一人の先駆者、外山義氏の急逝を惜しむ

     日本の高齢者介護の改革を促した人間建築デザイナー


● vol.16 地域にホスピスの新しい風が吹く
● vol.17 
住民の健康を護る温泉町の保健師―水中運動ネットワーカーとして
● vol.18 「死の臨床の魅力」とは?


● vol.19 「東京物語」が予言した“未来社会” の介護問題
vol.20 在宅医療から市民自身による「マイメディスン」へ
vol.21 人間の誕生から看取りまでするコミュニティケア

vol.22 介護予防に役立つ「非マシン筋トレ」。熊本県と北海道の実践から
vol.23 看護師が仙台でデイホスピス(在宅緩和ケアセンター)を開始
      一般住宅を借りて在宅ホスピスケアの拠点をつくる

vol.24 介護ロボットの開発に関心が薄い福祉業界


vol.25 医療政策を官僚から市民の手に――国の補助金で人材養成
vol.26 スウェーデンでも遅れている? 医師たちの痴呆観

vol.27 中越地震から1ヶ月――被災地の病院における危機管理


vol.28 災害医療と情報――危機管理の基本について
vol.29 ケアの主役は高齢者――愛知県師勝町の回想法を見て
vol.30 自分を騙すひと、騙さないひと


vol.31 「悪徳病院の悪徳医師」だったころ 
vol.32 医療の安全は患者参加によって進むか?
vol.33 ホスピス開設をめざす松本の尼僧


vol.34 言葉遣いについて―リハビリに通い始めて気づいたこと
vol.35 介護予防は保健師自立の起爆剤になるか?
vol.36 「良き伴侶」に恵まれるということ


vol.37 女性解放”の旗手、ベティ・フリーダンを偲ぶ
vol.38 ある開業医の物語『ドクトル・ビュルゲルの運命』
vol.39 「書を捨てよ、町に出よう」 在宅ホスピス元年に思いを馳せる新刊書


vol.40 いよいよ福祉の本丸にも改革のメス 「社会福祉法人経営の現状と課題」を読む
vol.41 年寄りの特権 古典「老子」の味わい
vol.42 もの盗られ妄想を抱いてしまったわたし


vol.43 イギリスにおける医師処分
vol.44 「10対100」体制が生き残りの条件? 訪問看護ステーションの行方

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