市民の眼        尾崎 雄 Ozaki Takeshi
         


  vol.38   ある開業医の物語『ドクトル・ビュルゲルの運命』
   2006-5-11

東京・神田の古書店街はその質と量において世界一だそうである。事実だとすれば神田の古書街は世界文化遺産の一つと言っていい。その一角で古い文庫本を買った。昭和28年に出版された岩波文庫『ドクトル・ビュルゲルの運命』(ハンス・カロッサ著、手塚富雄訳)だ。奥付に臨時定価四拾円とあるが、古本価格は200円だった。

ドイツの地方都市で、肺結核の診断・治療を得意とする青年医師が美しい女性患者に魂を奪われ、結核で死ぬ彼女と運命を重ねるようにして自殺するまでを描いた日記風の小説である。彼女は子持ちの未亡人。死んだ夫が残した一人息子のために病を押して働いていた。ドクトル・ビュルゲルは偶然の女神に導かれて彼女の主治医となり、次第に彼女の酷薄な運命に引きこまれていく。他の患者たちの往診を済ますと、毎夕、彼女の下に赴き、一緒にときを過ごすというように。時は20世紀の初頭。結核が死病だった時代である。やがて彼女は「もがきも苦痛もなく、永眠した」。そしてビュルゲルもあと追って毒を飲む。

作者、カロッサは詩人であり、医師であった。その繊細な心はビュルゲルの物語に投影されている。

「自分の扱っている患者たちの容態や自分のおこなう処置について、余儀ない必要に迫られて小さい嘘をいい、隠し事をする。でもそれはやっぱり嘘ではないか。誰が、事実でない言葉を吐いて、心の底で、たとい影の影ほどにせよ、自分を曲げ、自分をいつわったと感ぜずにいられよう。しかもそういうことが来る日も来る日もおこなわれ、仮面をかぶることが商売となり、しまいには羞恥も感ぜぬようになったとしたら。――いったいそのとき高貴な自我を目ざす道はどこに残っているのだろう」

物語はカロッサが1903年から14年まで医師を開業していた当時の体験をもとに書かれた。

訳者のドイツ文学者、手塚氏は、美しい少女に恋してピストル自殺を遂げる若者を描いたゲーテの名作『若きウェルテルの悩み』になぞらえ、本書を20世紀初頭の「ウェルテル」と評している。ゲーテの『ウェルテル』が「一人の天才的少年青年が強い個性として世界と時代の障壁に突き当たってあげた悶えの叫びであるとすれば、これは、市民的職業についている謙遜で柔和な一青年が、多くの他人の悩みをまともに自己の良心にひきうけずにはいられないその重荷によって死に就く物語である」と。

そんなに深刻ではない、さわやかな詩を書く医師が日本にはいる。

         <電車の中で>

    その人は、静かに電車に乗ってきた。
    私はドアの横にある椅子に一人で座っていた。
    向かいや、ドアをへだてた向こうの席にも、まだ余裕があった。
    その人は座らないな、と思って斜め前を見た。
    白杖を持った女性が凛として立っていた。
    その女性にはどの席が空いているか見えない。
    私は荷物を抱えて立ち上がり、声をかけた。
    と、向こうの椅子に座っていた男性も立ち上がっていた。
    ほとんど同時だった。
    いや、一瞬早く彼の声が届いたようだ。
    女性は、彼の横に座った。
    電車は何事もなかったかのように発車した。
    彼女の立ち姿に見とれていた私は、遅れをとったようだ。
    障がいをもつ人に声をかけるとき、誰かと競うことはめったにない。
    ちょっと先を越されたけど、うれしい。

          (ひばりクリニック通信「テレマカシー」vol.8より)


 

 vol.37   女性解放”の旗手、ベティ・フリーダンを偲ぶ     2006-3-10

2月6日付の読売新聞に1本の死亡記事が載った。「ウーマンリブ運動 ベティ・フリーダンさん死去」。 ベティ・フリーダンは1960〜70年代に活躍した女性解放の運動家である。米国だけでなくわが国のフェミニズム(女性解放・男女平等運動)に火をつけた人物。85歳の誕生日に当たる2月4日、ワシントンで死去した。

米国イリノイ州のユダヤ人宝石商の家庭に生まれ、名門女子大スミス・カレッジを卒業し、カリフォルニア大学バークレー校で心理学を学んだ。労働組合機関紙の記者などを務めたが「妊娠で退職を強いられ、3人の子供を持つ主婦に」(読売新聞)なった。離婚と失業も体験。1963年、ベストセラー「新しい女性の創造」(邦訳名)を出版。「郊外に住む中産階級の主婦たちの“満たされない生活”」(同)を描き、「女性が家庭の外で個人として自己実現を目指すよう呼びかけて、20世紀の女性の権利拡大や地位向上に大きな役割を果たした」(CNN.com)。

1966年、全米女性機構(National Organization for Women=NOW)を創設し、初代会長に就任。「人工中絶や求人の性差別撤廃、男女賃金の同一化、女性の昇進機会、産休といった問題に取り組んだ。その一方、男性と手を携える必要性を指摘し、強硬に家庭を否定しないよう訴えた」(CNN.com)。

来日したときの講演会で見たフリーダンはエネルギッシュそのもの。元気だった頃のシャロン・イスラエル首相を女性にしたようだった。私は1970年代、フェミニズムの影響を受けた女性ジャーナリストやフリーダン信奉者らに刺激され、黒一点の形で女性学の研究会メンバーに加わった。たとえば毎月1度、日本女子大の教員宅で開かれていた国際女性研究会には休まず通ったものである。そんな場で一緒にフェミニズムを学んだ当時30歳代の女性たちはその後、国会議員、男女共同参画局長、某県副知事や大学教授などに“出世”。各界で活躍している。私をフェミニズムの世界へと導いてくれた女性はすでに定年退職し、郷里に戻って父親の会社を継いだ。

30年前、我が国におけるニューフェミニズム運動の騎手を自任していた渥美育子氏(当時青山学院大学助教授)とフェミニズムを議論したことがある。そのとき分かったことは、フェミニズムの本質とは「個」の自立と尊重である。それは女性の自立と社会参画だけの根本原理ではない。民主主義の基本ではないか。

ベティ・フリーダンは「60歳を過ぎたころからは老いの研究に没頭。1993年に出版した『老いの泉』では高齢期こそ『希望に満ちた未知の冒険のとき』と唱えた」(読売)。フリーダンがNOWを創設して今年でちょうど40年。我が国において女性の社会進出のインフラ整備を求める女性たちのうち、どれだけの人が「ベティ・フリーダン」を知っているだろうか。それはともかく、少子高齢時代に突入したいま、彼女が40年前に提起した“女性の課題”は、いまや“社会全体の課題”にクローズアップされていることだけは事実である。(2006年3月7日、老・病・死を考える会世話人:尾崎 雄)




vol. 1 草の根福祉の担い手  マドンナたちの後継者は?  
vol. 2 在宅ホスピス普及の鍵を握る専門看護婦に資格と社会的地位を
  
vol. 3 <NY“脱出”速報>


vol. 4 ホスピス・ケアはアジアでも「在宅」の波?  
vol. 5 青年医師の決断  −ニューヨークのテロから学んだこと−
vol. 6 「恐い先生」と「やさしい先生」 −東京女子医大の医療事故隠蔽事件のニュースから−


vol. 7 「9.11」のニューヨークから4ヶ月−生還者たちの様々な思い−
vol. 8 介護保険で介護負担感は軽くなったか?−サービス利用料が増えれば実感がわく?−
vol. 9 在宅ターミナル・ケア25年。先駆者、鈴木荘一医師の軌跡


vol.10 訪問看護婦、ホスピスナースは「ハードボイルド」だ!?
vol.11 車の片輪で走り出した高齢者福祉? 成年後見制度 日独の違い
vol.12 東北大学が生んだもう一人の先駆者、外山義氏の急逝を惜しむ
     日本の高齢者介護の改革を促した人間建築デザイナー

● vol.13  旅だち―ある女子大の卒業式にて 
● vol.14  大学教授になって11ヶ月目。急逝したAさんを悼む
● vol.15 「旬なスポット、六本木ヒルズ」は“バブル”の丘?


● vol.16 地域にホスピスの新しい風が吹く
● vol.17 
住民の健康を護る温泉町の保健師―水中運動ネットワーカーとして
● vol.18 「死の臨床の魅力」とは?

● vol.19 「東京物語」が予言した“未来社会” の介護問題
vol.20 在宅医療から市民自身による「マイメディスン」へ
vol.21 人間の誕生から看取りまでするコミュニティケア

vol.22 介護予防に役立つ「非マシン筋トレ」。熊本県と北海道の実践から
vol.23 看護師が仙台でデイホスピス(在宅緩和ケアセンター)を開始
      一般住宅を借りて在宅ホスピスケアの拠点をつくる

vol.24 介護ロボットの開発に関心が薄い福祉業界

vol.25 医療政策を官僚から市民の手に――国の補助金で人材養成
vol.26 スウェーデンでも遅れている? 医師たちの痴呆観

vol.27 中越地震から1ヶ月――被災地の病院における危機管理

vol.28 災害医療と情報――危機管理の基本について
vol.29 ケアの主役は高齢者――愛知県師勝町の回想法を見て
vol.30 自分を騙すひと、騙さないひと


vol.31 「悪徳病院の悪徳医師」だったころ 
vol.32 医療の安全は患者参加によって進むか?
vol.33 ホスピス開設をめざす松本の尼僧


vol.34 言葉遣いについて―リハビリに通い始めて気づいたこと
vol.35 介護予防は保健師自立の起爆剤になるか?
vol.36 「良き伴侶」に恵まれるということ



                
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