起業家ナースのつぶやき    村松 静子 Muramatsu Seiko


 
vol.39
  「医療行為」、そこに潜む「矛盾点」
2005-5-1
 

議論の末、平成15年4月から救急救命士が医療機関との連携のもと除細動を行うことができるようになった。救急車が到着して除細動を行うまでの所要時間は平均約8分、1分早まるごとに7−10%ずつ救命率が高まるといわれている。適切な心臓マッサージと心肺蘇生法、それにAED(自動体外式除細動器)を組み合わせると、効果的な救命措置になる。そこで、市民に対しても、それらに関する知識と技術をもたせるための研修が進められている。

救急救命士については、救命率を向上させるために、@器具を使った気道確保A半自動式除細動器を使った心臓への電気ショックB静脈路確保のための点滴に加え、C気管挿管D薬剤・エピネフリンの投与が、医師の指示に基づく「特定行為」として可能になった。「除細動解禁 生存率アップ 変わる救急救命士」と題して、この3月22日付の読売新聞医療ルネッサンスにも取り上げられたばかりである。ところが、その10日後、矛盾をついた出来事が起こった。「当直医の手回らず・・やまれぬ思いの救命士 違法承知 病院内で除細動施す 処分検討も」。目に止まった記事の内容は次のようなものである。

119番通報を受けた救急救命士が病院に搬送中、救急車内で除細動を試みようとしたが、除細動器が作動しない。病院内に到着後、当直医は別の救急患者の対応に追われていた。自らの判断で、医師だけが使用を認められている救急室内の除細動器を使用した。その後、当直医も除細動を行い、男性の心肺機能はいったん回復したが、翌日未明死亡した。

救急救命士を含め一般の人が使用できるのは「自動体外式除細動器」(AED)と呼ばれるタイプで、機械が心臓の動きを解析し、電気ショックを与えるべき状態であるかどうかを判断、電圧調整を行う。これに対し、医師用の除細動器は、電気ショックを与えるかどうかの判断や電圧調整などを医師が行うという違いがある。その違いがあることによって、違法性は分っていたが、助けたい一心でやってしまった」という救急救命士は、法律違反容疑で書類送検される可能性もあるというのだ。

ここで改めて問いたい。医師の指示に基づく「特定行為」とは、どのようなものを指し、それらはどのような意図で生まれたものなのか。

私は、コラムvol.9「私は言いたい、今だから言える」の中に次のように記している。

米国の医師たちは、救急処置に関する訓練を定期的に受けることが義務付けされていると聞く。つまり、医師であれば誰もが救急救命の技術を身につけているということになる。本来、それは当然のことといえよう。私は、すべての医療従事者に対して任務責任を徹底させるべきと考えている。

救急救命士による除細動に関するこの新聞記事を読んで、私は様々なことを感じた。@救急車内の除細動器が作動しないなどということがあってはならない。点検を怠っていた証拠だろう。A当直医は別の救急患者の対応に追われていた。1分1秒を争う待てない状況の中で、医師と救急救命士は互いに何をすべきか。手が使えなくてもできることはある。もし、職域を越えて救命するという対等の立場で互いを信頼し、言葉を発し合えていたなら、違法という問題にまでは発展しなかったはずだ。B救急救命士は、自らの判断で、行動を起こした。自ら判断することは必要だ。しかし、医師が傍にいるのだから、本来は医師自らが実施すること。しかしそれが無理な状況なのであるから、現行法においては、明確な指示を受けることが必要である。指示がないのなら、自ら求めてでも指示関係を築かなければならない。医師の指示に基づく「特定行為」とされている以上、そうするしか救命の道はない。C救急室内の除細動器を使用した。すぐさま使用したくなるのは看護師の私にはよくわかる。しかし、医師が常駐している病院内であり、また、AED(自動体外式除細動器)ではなかったばかりに違法になる。ここでは、やはり、指示関係がなかったということなのだろう。そこにはベテラン医師がいたにもかかわらず、勝手に行動してしまった救急救命士がいたのだと想像するしかない。しかしそこでいえることは、もし、彼が除細動を実施しなかったら、男性の命はそこで途絶えていたに違いないということである。

私は、いろいろ憶測をしながら、現状での「特定行為」なる矛盾点と照らし合わせて考えていた。もし、医師になりたての研修医が対応する救急部に、除細動を必要とする人が搬送されてきたら、果たしてどのような指示を出すのだろうか。医師にしか使用できない医療機器をどのように使用するのだろうか。医師はどのように判断して対応するのか。果たして適切な指示がなされているのだろうか。

医師になりたての研修医による医療事故が後を絶たない。「併用禁止の抗がん剤を同時投与」「点滴用の不整脈治療薬を誤って投与」「栄養チューブの誤挿入」「3倍量のリウマチ薬投与を指示」。起こるべくして起こっている医療事故の数々。気道確保、心臓マッサージと心肺蘇生法、それにAED(自動体外式除細動器)を組み合わせることを、どれだけの医師が適切に実施できるのだろうか。適切な指示を出せるのだろうか。もし、病院内にもAED(自動体外式除細動器)が備え付けられていたなら、どのようなことが起り得るのか。今の法律はどうなるのか等々。

いずれにしろ、私は改めてコラムvol.9を読み返していた。

私たち看護師は、法律上において、現在もなお、医療行為についてはすべて医師の指示の下でなければ行えないことになっている。つまり、指示下でのみ行えるということである。解禁されたといわれる静脈注射でさえ、いや、ヘルパーに解禁された吸引さえも自らの判断のみでは実施できない。一般人にも浸透している血圧測定でさえも、その測定結果を独自に判断して患者に伝えることは医療行為とされ、「診療の補助」業務の範疇におかれているのが実情なのである。そこには、看護師としての判断どころかプロとしての責任意識もないまま、ただ仕事をこなしている姿しか映らない。資格を持つ看護師は140万人を超えている。看護師の国家資格とは何なのか。

今の時代、改めてその意味や価値を考え、医師法・保助看法を見直す必要があるのではないか。法律の改正を望むからには、看護師の責任は当然のこととして受け止め、ランクづけもやむを得ない。一般市民や多くの関係者が認める看護師は一握りだけかもしれない。しかし、若い世代の看護師が大きくはばたける道を拓くことが今は必要である。私たち団塊の世代の看護師に残せることはそんなことのような気がする。

 
 vol.38
  在宅看護研究センター20回設立記念日を迎えて   2005-3-24
 

3月24日は、私にとって忘れられない日である。看護の独立をめざして、在宅看護研究センターを設立しようと立ち上がり、法の壁を乗り越えて、私たちが独立開業することが認められた日だったからだ。

人間味のある温かな人柄の公証人は笑顔で語りかけてくれた。
「訪問看護ってどんなことをするんですか。・・これは大事な仕事ですね。・・頑張ってくださいよ」
その言葉に、たった2.5人の看護師だけで、まったく未経験の領域に踏み入っていく面白さは、まるで冒険のようで、日常ではなかなか味わえない高揚感を味わっていた。そこまでは思い通りにことが運んでいたのだから、鼻歌の1つも出そうであったのを覚えている。

そして3月24日、作成した定款を登記所へ届けたのだった。3月28日、その日は確か雨だった。運がついて回っているはずの私を、その運から引き離そうとするような事態が待ち構えていたのだ。登記所で名を呼ばれた私は、何となく嫌な予感がした。
 登記官が切り出した。

「訪問看護って何ですか。看護婦と家政婦ってどこが違うんですか。これは、労働省の方ではないんですか」

内心穏やかではなくなった私。その後はしばらく押し問答が続いた。

「看護婦の仕事と家政婦の仕事は全然違いますよ。それに付き添い看護と訪問看護も違いますし」


「看護婦って、会社は作れないんじゃないかなあ」

「そんなことはないんじゃないですか

「医療法にひっかかるんじゃないかなあ」

「ちょっと調べていただけませんか。保健婦助産婦看護婦法というのがあるはずですが」

登記官は、ズラリと並んだ法律書の1つ1つを調べてくれたが、保健婦助産婦看護婦法が記載されている法律書はどこにも見当たらなかった。

「医療法の中には入っておりませんか」

訪問看護事業を始めたいという一心で突っ走ってきた中に、熱い怒りの感情が突き上げてきているのを感じていた。
その後もいろいろあった。承認されたのは4月16日だった。

「この定款の中にうたわれている目的を変更した方がいいですねえ。患者さんに直接手を出すことは、すべて医療行為になってしまうから、訪問看護というのもダメだし、慢性疾患患者の指導、つまり、病気に関する指導というのももちろんダメだし・・」
忘れられないいくつかの言葉もある。
「厚生省では、看護婦だけでこのような形をとるのは初めてなんで、良い悪いとはいえない。何とかしてあげたいのは山々だがって言っているんですよ」
「看護婦が施設を一歩外へ出たら法律的には家政婦と同じなのよ。今の法律の範囲で事を進めていくとしたら、あなたたちのところに医師を置かなければダメでしょうね」。

看護師の国家資格って何なのか。ともあれ、3月24日、遡って登記されたのだった。
時代は変わった。しかし、今のままの私たち看護師ではいけない。気を引き締めて、先を見据える私がいる。  
      

 
 vol.37
  再び「心」を思う その1
  2005-2-25
 

不安と葛藤に疲労が加担する中で、最愛の母の死を看とった娘が抱きついて来て言った。「辛かったけど、看とれました」。肩の力が抜けて、素直に顔を出した彼女の本心。耳元で囁くその言葉に胸が熱くなり、私は思わず強く抱きしめ返した。

「死と向き合う」と一言で言うが、愛する人が逝く姿を目の当たりにしながら、最期まで看とるには大変な勇気が要る。増してや、それを実現するなど、並大抵のことでは出来ない。そこでは、愛し合う二人が強引に引き離されようとしているのだ。最期のその時を目の当たりにすると、死の淵から引きとめたいという気持ちと、目の当たりにしているこの状況から逃げ出したいという気持ちが交錯する。さまざまな不満が淀み、張り詰めた、やりようのない心を生み出す。それが、心の葛藤となって現われる。

母の死に直面し、すでに傷を負っているその心は、果たして最後までそこに踏みとどまることができるのか、それとも逃げ出すのか。

愛する母への素直な思いを抱いた彼女の心は、逃げなかった。死に逝く母と向き合っているように、弱かったそれまでの自分とも向き合い、しっかりとそこで踏みとどまった。今起こっていることを疑うのではなく、真正面から受け止め、素直になって母の心に近づいたからこそ、彼女は踏みとどまることができた。

 母は、どんな状況に置かれても、やっぱり母なのである。この危機的状況の中で、最愛の娘に、「強くなる」という最大のプレゼントを与え、その余韻を残して逝った。プレゼントの柔らかい紐は、やがて彼女の心の中でほどかれ、開かれた箱の中に眠っていた小さな芽が吹き、静かな成長を始めるはずである。それは誰の目にも見えない。しかし、強く、優しく、温かく、夢を抱かせる不思議な力を潜めている。

 自分の心が不安にさらされることは嫌なことである。苦しいことである。しかし、私たち人間にとって、この不安感というものは、時には必要で、大切なものなのだと、私は思う。自分の欲求を妨げられることが漠然と予想されるときに経験するといわれる不安、起こるかもしれない恐怖や危険に対する取りとめのない情緒、それがなくなるということは、人間らしさを失うことにもつながる。真っ向から向き合うのか、それとも背を向けるのか、自分はどちらを選ぶべきか。心理的に身動きのとれない状態に置かれて迷い悩む、つまり、葛藤にも同じことがいえる。

自由が叫ばれる今の時代、若者の間で不可思議な現象が起こっている。どのようなことが起こっているのか、それらはなぜ起こっているのか、団塊の世代の私は心を痛めている。人間の心に潜む「不安と葛藤」の角度から、それらの現象が起こる理由について真剣に考えている。



vol. 1〜3  「心」を思う その1・その2・その3

vol. 4〜6   看護の自立をはばむもの その1・その2・その3

vol. 7〜9  この時期になると浮かんでくるあの光景 その1・その2 私は言いたい、今だから言える

vol. 10〜12 看護の自立をはばむもの その4ー  開業ナースがゆく その1・その2

vol.13〜15  開業ナースがゆくその3 
看護の自立をはばむものその4-2 本当にほしいサービスができないわけ

vol.16〜18 点滴生活雑感 ともに創る幸せ 看護の自立をはばむものその5

vol.19〜21 ともに創る幸せ2 ともに創る幸せ3 ともに創る幸せ4

vol.22〜24 ラーニングナースを位置づける その1なぜ必要か その2応援団はいる
 ナースの私が抱く疑問〜1.痰の吸引

vol.25〜27  ナースの私が抱く疑問〜2 静脈注射 素敵なエッセイの贈り物 疑問は疑問、「今の時代って?」

vol.28〜30  看護師の資格の意味を問う  感受性を揺さぶる学習環境が必要なのでは?  ラーニングナース制

●vol.31〜33 40年の歴史をもつ企業内大学老舗『ハンバーガー大学』 
介護保険が抱える問題〜看護にこだわる開業ナースの視点から  恩師、國分アイ先生

●vol.34〜36 國分アイ先生の遺志を継ぐ 安比高原の女(ひと) 介護保険制度の次の手は介護予防?〜今、私が思うこと

●vol.40  スタッフと共に追求する看護の価値:その1 vol.41スタッフと共に追求する看護の価値:その2 
vol42.「在宅医療支援展示室」の誕生、その裏に潜む願い


 

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