医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi

  vol.20   ユ・カンナラちゃんを偲ぶ    2005-09-18

過日、「21年前募金で心臓手術 ユ・カンナラさん死亡」という短い新聞記事が目に止まった。「ユ・カンナラさん」と言っても、殆どの読者はご存知ないと思う。

記事を紹介する(朝日新聞 05年6月11日)。

「先天性の心臓病を抱え、21年前に来日し、義援金で手術を受けたカンボジア難民、ユ・カンナラさんが8日、心不全で死亡した。26歳だった。通夜は11日正午から、東京都小金市前原町4の12の3の和光密寺で。

生まれつき心室の壁がないなどの病気があった。一家で混乱が続くカンボジアを逃れ、タイの難民キャンプに入った。医学水準の高い日本に定住し、治療することを望んだが、政府は受け入れを拒否。『難民を助ける会』(東京都品川区)などが支援を約束し、政府に働きかかけ、「人道的立場からの超法規的措置」として認められ、84年4月に日本に来た。
新聞やテレビで取り上げられ、治療費は全国から寄せられた募金でまかなわれた。術後、順調に回復した。01年3月から和菓子製造販売業、虎屋(東京都港区)に勤務していた。」
 
小生が、ユ・カンナラさんに最初に会ったのはカンナラさんが5歳の時、勤務先の小児病棟であった。父親に抱かれていたカンナラちゃんは、口唇に高度のチアノーゼがあり、一見して先天性心奇形であることが分かった。諸検査の結果、「単心室」と診断され、待期手術をすることになった。

当時のインドシナの政治情勢は混沌としており、ことに動乱後の難民問題が注目されていたこともあり、先天性心奇形を持つ難民の子供が、関係者の支援で困難な問題を解決しながら手術をすることになったということが話題になった。連日、多くの新聞、雑誌、テレビで報道された。記者会見も行われた。「手術」を放映したいというテレビ局の申し入れもあった。無論、お断りした。多くの市民から義援金も寄せられたが、当時の都知事が国民健康保険を適応する措置を執ったため、医療費の問題は解決したと聞いている。
 
左側の手に行く動脈、鎖骨下動脈を同側の肺動脈に繋ぐ(吻合する)ブラロックータウシッヒ手術という、心臓外科医にとっては初歩的な手術であるが、チアノーゼ性心疾患の治療にとって極めて重要な手術が行われた。
 
手術後の経過は順調であった。難民の救済に当たっている弁務官が見舞いに来られた。弁務官に「He is getting well.」(順調に回復しています)と言った記憶がある。小生の語学力ではそれだけしか言えなかったのである。弁務官が何と話されたのかは記憶にない。時期をみて根治手術を行うこととし、退院した。小児科に通院していたが、その後のカンナラちゃんのことは知らない。
 
偶然、21年ぶりに悲しい報道を眼にしたのである。風の便りに、カンナラちゃんは根治術を受けなかったと聞いている。ユ・カンナラちゃんからユ・カンナラさんとなった元気な姿を見たかった。ユ・カンナラさんの勤務先の「虎屋」は、"ようかん"の「虎屋」で知る人は知る老舗の和菓子屋である。「虎屋」周辺は、小生が子供のころの良く遊び、長じて散歩の道筋となったところでもあり、ユ・カンナラさんが懐かしくまた一層、身近な存在になった。

小生が初めてカンナラちゃんに会ったとき、母親ではなく父親に抱かれていた。一度も父親以外のご家族にお会いした記憶はない。母親、兄弟姉妹のことも分からない。難民生活のため家族が離散したのであろうか。

心奇形を持つ難民の子であったカンナラちゃんが、苦難を超えて市井の一員のカンナラさんとなり平和に生活できるようになったことは、多くの日本人の支援があったためであるが、「カンナラさん」は、日本人に「難民問題」に関心を持たせただけではなく、自ら行動を起こす起爆剤になったと思っている。当時のことを回想しながら、異国の地で若くしてお亡くなりになった青年、ユ・カンナラさんの冥福を祈っている。

  vol.19   シーボルトの娘:看護婦資格制度の黎明     2004-08-20

敬愛する故司馬遼太郎氏の講演録(*)を読んでいたら、「シーボルトの娘が、日本で最初の看護婦の免許の持ち主である」とあった。驚いた。「シーボルトの娘」を知りたくなった。「日本の看護婦制度」にも興味を持った。

まず、シーボルトの娘の資料を探した。結局、吉村 昭氏(新潮社)の筆になる「ふぉんしいほるとの娘」が歴史小説(*)ではあるが考証も多く生涯を忠実に描いてあると思われた。
 
フィリップ・フランツ・パルタザール・フォン・シーボルトは、日本に蘭学を広めたオランダの軍医(外科医)という知識はあった。彼は、江戸末期の文政6年(1823年)、デ・ドリー・ベジュステル号の船医として長崎に来日、オランダ人の居留地である「出島」で医療にあたっただけではなく地元の人の治療もおこなった。また、文政12年(1829年)、お国構え(国外追放)になる6年間に、全国から俊秀を「鳴滝塾」に集め、西洋医学(蘭方医学)を中心に広く学問を教え、多くの門人を排出した。医師としての名声は江戸にまで響き、江戸で要人の治療を行ったという。シーボルトは、日本から追放された30年後の安政6年(1859年)、63歳でオランダ貿易会社の顧問として13歳の長男、アレキサンデルともに再来日、妻と娘に再会、3年後の1862年に帰国、1866年、70歳で母国、ドイツで死亡した。
 
シーボルトの「娘」の話である。名前は"いね"という。おいねさんは、文政10年(1827年)5月6日生まれで、母親の名は"滝"。2歳の時シーボルトが日本を離れたので父親の記憶はない。14歳(天保11年、1841年)で蘭学を究めるため、シーボルトの弟子のいる宇和島におもむき、師に勧められ産科医の勉強を始める。まず、東洋和医学の産科学の実地教育を受け、その後、蘭方医学(西洋医学)の産科学を専門とする岡山にいるシーボルトの弟子に教えを受けた後、安政6年(1859年)、長崎の洋式病院、小島養成所で女性第一号の産科医となる。大坂を経て、1871年(明治3年)、東京府・築地で開業、"伊篤"(文久3年、1863年、楠本伊篤と改名)、44歳。産科医として名声を博し、明治6年7月、明治天皇の側室葉室光子に侍医とともに産科医として附添う御用係りに任ぜられる。

明治7年、第一回医術開業試験が実施され医師の資格制度が始まるが受験せず。25歳以上の開業医に、試験が免除される世間で「お情け免状」といわれる「開業医免状」が与えられる。明治8年、福沢諭吉より教育者としての活躍を勧められるも辞退。伊篤、57歳。日に日に急速な進歩をする医学から取り残されていることを知り一線から身を引く。明治36年8月26日、77歳で波乱に満ちた一生を閉じた。

看護婦資格制度である。以下、山下麻衣氏(*)の研究論文による。明治7年(1885年)、「医術開業試験」が実施された年に初めて看護婦養成制度、養成所が出来た。慈恵病院の有志共立東京病院看護婦教育所である。1886年には同志社大学社病院京都看護学校および桜井女子学校看護養成所、1888年に帝国大学看病法練習科、1890年に日本赤十字社看護婦養成所が設立された。養成に必要な資格は、読み、書き、算数が必要とされた。看護婦は知識のある士族や商業を営む家庭の女子で経済的自立を望む、もしくはそれを余儀なくされた女性たちの選ぶ職業となった。全国的な看護婦資格や業務内容の統一が実現したのは1915年(内務省令第9号)、指定校の教育を受ければ資格が得られる時期を経て、「保健婦助産婦看護婦法」に基づく国試家験により国家免許制度になったのは、戦後の1951年である。

明治以降の看護婦養成について雑ぱくに記した。山下麻衣氏によると、日本で最初に看護婦(看護人)として施設に雇われたのは、享保7年、1722年、小石川養成所(現在の小石川植物園)であったという。むろん知識も経験もない素人で、女性患者を看護したり洗濯をしたりする雑役婦にすぎなかったが、病人の世話をする職業は初めてであった。明治元年(1868年)の戊辰戦争の際、負傷者の収容所として横浜軍人病院が設立され、国としてはじめて女性の「看護人」を募集したという。看護婦ではなく看護人としたのは、看護婦としての職業教育を受けてない女性であったことによる。

シーボルトの娘、"おいね"さんが、日本の「看護婦一号」であったという故・司馬良太郎氏の記述の根拠となる事実は見あたらなかった。医師も看護婦にも資格制度のない時代に、産科医として活躍していたわけであるから、今日の「医療制度」から「助産婦」「産婆」と位置付けたのかも知れない。助産婦制度の変遷についてしらべた(*)。古来、出産は一人であるいは家族・近隣の出産経験のもった年輩の女性等の援助を受けて自宅でおこなうものだった。「トリアゲババ」「トリアゲバアサン」「コトリババ」「コナサセ」「コゼンボ」などと呼ばれていた。村における出産という一大事を担う彼女たちは、地域におけるお産の相互扶助の紐帯でもあり重要な位置を占めていた。「トリアゲババ」が、全国で「産婆」と法律上呼ばれたのは明治以降である。明治7年(1874年)、明治政府は文部省通達「医制」を通達し、「トリアゲババ」を「産婆」という職業として認定し取締規則を作った。しかし、資格試験は課していない。

結局、江戸末期から明治初期にかけて日本で最初の女性産科医として活躍した事実しか分からなかった。司馬遼太郎氏は、明治になり医師としての公的資格を取らなかったため、江戸からの産科医を産婆、助産婦と位置付けたためなのかも知れない。明治2年、時の兵部大輔(軍事大臣)、大村益次郎が京都で暴漢に襲われ重傷を被い、大坂仮病院でボードイン、緒方惟準らの医師団の治療を受けた。そのとき看病にあたったのが宇和島で知己のあった伊篤(おいねさん)である。この大坂仮病院で西洋医師団に混じり看護に尽くしたことが、大村「贔屓」の司馬氏をしてそう呼ばせたのかも知れない。

最後に、講演で司馬氏はこう結んでいる。"いね"とシーボルトは幕末に対面しています。そのときシーボルトが言った言葉は印象的なものでした。「いい顔をしている」さらに付け加えました。「医学があなたの顔をつくったのだ」 すでにシーボルトは老人でした。自分が日本に残した娘の、赤ちゃんの写真を一生持っていたそうです。その娘が成人して医学の勉強していると聞いて喜び、対面してさらにその風貌に喜んだ。要するに医学というものは非常に厳かな学問である。そして人間にとって本来,親切という電源を発する学問なのです。

結論の出ない調査であった。しかし、敬愛する司馬遼太郎氏の「日本で最初の看護婦免許の持ち主」の文言で、色々な歴史を学んだ「お盆休み」となった。お付き合いして頂いた読者に感謝いたします。

(*)参考
・週間朝日増刊号:司馬遼太郎が語る日本:朝日新聞社発行 1999年2月15日
・吉村 昭:ふぉん・しいほるとの娘 上・下巻 新潮社 平成15年7月20日(5刷)
・山下麻布:明治期以降における看護婦資格制度の変遷 大坂大学経済学部 第50巻
 第4号100―114頁
・渡辺大輔:産婆・助産婦 資格化とその弊害、そして可能性:小熊英二研究室 2000年
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/top.html
・大手春江:産婆の近代化から助産婦の現代へ:医学書院 第54巻 第12号 2000年
(http://www.tokyobunka.ac.jp/tandai/study/shakai/text/text01.html)

 




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