八十乙女のつぶやき   国分 アイ Kokubun Ai


 
  vol.3
  文系と理系  2005-6-10
 
 

昔々、小学校1年生のとき、多分算術の時間だったと思う。「アイちゃん一人だけできたから」と、担任の先生が藁半紙一帖をご褒美にくださった。そのときの答えは「金魚9匹」。問題は忘れてしまったが、その「金魚9匹」だけは覚えている。しかし、4年生の頃から、だんだん算術が苦手になってきた。

 綴り方は2年生頃から上手だったらしく、私の書いたものをよく先生がみんなの前で読んでくださった。2年生の頃、父に連れられて猪苗代湖に行き、遊覧船に乗せてもらった。そのとき、確か澄の宮様が、湖岸のご別荘からモーターボートで白波を家蹴立てて通り過ぎてゆかれた。そのことを綴り方に書いた。そうしたら、担任の竹内ヤソ先生が、「アイちゃん、宮様のことを書くときは、敬語というものがあるんだよ」とおっしゃった。はあ、なるほどと納得したが、その後敬語を使ったり綴り方を書いた記憶はない。

一方、算術のほうは、ますます苦手になってきた。応用問題など出されると難しかった。5年生の頃の担任は、大島修三先生。師範学校を卒業したばかりで、支那事変の勃発した頃、若松の29連隊に予備士官として短期入隊して、またわが小学校の先生になられた。その大島先生が国語の授業で、黒板に「中華民国」と書き、みんなで大きな声で読みなさいと言われた。ところが、気が付いたら“華”の字を「か」と読んでいるのは私だけだった。それは父母が毎月取ってくれていた『幼年倶楽部』という雑誌を読んでいたからだと思った。『幼年倶楽部』『少女倶楽部』は私の愛読誌だった。

女学校に入ってからは、算術の苦手がもろに表れてきた。担任の波木先生から通信簿を渡していただいたとき、数学が最低だとご注意を頂いたことが忘れられない。物理は五島先生という痩せた男の先生だったが、割合と理解しやすく、興味があった。

日本でも、ノーベル賞受賞者には川端康成氏のような文系での受賞もあるが、今年の田中耕一、小柴昌俊両氏は理系であった。田中氏は専門家として企業で働いている実践の結果での賜だった。初めの頃は自分でも驚きが戸惑っておられ、それがむしろ好感を呼んでいた。「産業協同」という言葉がある。優雅な文学より、人類の生き方に及ぶ理論とその成果を、世の人は待っているのだと思う。    (2002年)
 

 
 
vol.2
  老年の一つの仕事
  2005-4-26
 
 

老い。「この年になって初めてわかったわよね」。同年輩の者が顔を合わせて、しみじみ語ることがある。

新聞で吉沢久子氏の『老いじたく考』を読む。同年代で一人暮らしの日々を生きる者として、生活の知恵的要素もあり、参考にさせていただいている。

ごく最近、曽野綾子氏の『完璧戒老録』を読んだ。初版は昭和47年。もっと早くに読むべきだったと思った。否応なく老いゆく身であることを、それなりに自覚して生きてきた心算で、自分なりの信念にあまり誤りはなかったとは思うが、やはりそうかと納得し、確信が得られるようなことが次々と述べられているのである。

老年といういうには少し遠い年代で書かれているが、宗教家でもある氏の考えは、理性的で厳しい。本当に老境に入られても、この考えに変化はないだろうかと、友人と話し合ったことがあったが、氏はきっと書かれたとおりの老いを生きられるのだろうと、私には思える。

この本の中で、特に強く惹きつけられる一項があった。「老年の一つの高級な仕事は人々との和解である」(3.死と馴れ親しむ)という言葉である。和解とは、辞書に見ると、仲直りすること、と書かれている。仲違い、誤解、恨み、憎しみなどの人間関係のトラブルを死の前に整理するということであろう。それを高級な仕事と、特に言われるのは、個人だけで解決できないような人間関係や、その人の生きてきた歴史も絡むからであろう。

私にもある時期から、平易な表現で言うと、いじめがきわめて組織的、計画的に長期にわたって続いており、自分では解決できぬまま、自戒の念に悩み続けていることがある。

去る1997年、7月7日七夕の日、喜寿を迎えた私は、7の数の重なりを、縁起良しを決め込んで、一冊の自分史のようなものを自費出版した老後の呆け予防の目的で書き始めた朝日新聞の文章教室で、足かけ7年間書き続けたものと、看護職を通して専門誌に書いた論文や、所属先や関係機関の求めに応じて書いたものなどを年代ごとにつないで、一冊の本にまとめたものである。

その本のまえがきに、「管理者としても教育者としても、まったく未熟であった自分を、それなりに受け止め、協力していただいた方々に、お詫びとお礼を言いたい」と書いた。それは、ある思いがあったからであった。

私は、看護職業人として、母校、母印である組織に約30年間勤務させていただいた。最後の職は、本社直属の高等教育機関であり、私の母校でもある、歴史のある全国的看護教育組織の教育・管理の責任職であった。私にはその職に就く意思はもちろん、資格も能力もまったくないままに、前任者の突然の退職の後を継ぐ事態となったのである。その任ではないと必死にお断りしたが、業務命令であるという圧力に抗しきれず、悲痛な思いでお引き受けした職務だった。その人事に関して、教員が学長に反対を陳情していることも知り、在任中は罪を重ねている思いに悩まされながら、ただ自分のできることに全力を尽くし、経験を通して学ぶよりほかなかった。

規則破りの学生の処遇に戸惑い、学校当局の問題について責任者として、非常勤講師にテーブルを叩いて怒鳴られたこともあった。ストレスで安定剤を飲むようにもなった。看護教育がレベルアップされる過渡的時期に居合わせた者の、負わねばならぬ宿命、と自分を納得させていた。

その頃、優秀な後輩がいた。アメリカで学び、博士号も取得されたという。4年制大学昇格時の責任者として組織からも期待されており、私は彼女が帰国し、バトンタッチするときまでと、ひたすらその時を待った。就任して3年目の1月、学校業務がもっとも多忙を極める時期に、思わぬけがで入院した。これは神が与えてくれた機会だと思った。自分の考えを述べ、辞任を願い、その時は素直に受け入れていただいた。私の後任は、勤務年数も長く、学校運営にも馴れた後輩が引き受けてくれた。

この職に就くまで、私は患者さんを学生と共に看護する、臨床での学生指導の専任教員だった。胃癌で2度も手術を受けた自分の体験を生かしながら、純粋な学生と共に学び、看護する喜びを味わい、この職責についたことに、今も忸怩たる思いがしてならないのである。

有能な後輩に後を託し、私はこの組織を離れた。次の職場は私の年齢と職歴に見合ったもので、教育管理の職責が待っていた。現在看護教育の4年制大学は全国で70校あるが、当時はその幕開けの時代で、誘われて73歳まで5か所の看護教育機関を歩いた。

自分史のような本を出そうと思ったのは、わずかの期間に触れ合った方々にも、本当の自分を知ってもらい、足らざるを詫び、さらに数えの面での補講にもしたいとの思いがあったからである。

そして、冒頭に書いた「老年の高級な仕事」としての拙著『我が人生・我が看護観』なのである。この本をもって和解としたいと願い、自分なりに納得できたのである。 (執筆年不詳)  
 

 
 
vol. 1
  老いて画く自画像  2005-3-15
 
 

だいぶ過去の話になるが、東京オリンピック女子バレー決勝戦のその時、私は寮でただ一人、広い風呂に身を沈めながら、そんな自分の行動に我ながら苦笑していた。

この世紀の決戦に、在寮者のほとんど全員、否、日本中の人々がテレビの前に釘づけになり、多くは勝つことを信じ、日本チームに大きな声援を送っていたに違いない。

当時、金メダルがとれる種目について、マスコミは予測を立て、女子バレーも勝ち進むごとに国民の期待が大きくなっていた。だが私には、それ故になお不安が募った。そんなにやすやすと勝てるものではない。相手ソ連チームも必死である。運もある。そして、多くの国民の期待を背負い、緊張の極限にあるだろう彼女らの心情を勝手に想像して、私はわがことのように不安になった。

その不安、緊張が胸をしめつけ、動悸し、その期におよんで、風呂場への逃避となった訳である。風呂を出て結果を知り、私はホッと安心し、繰り返しテレビに映る受賞の場面を何度も見ていた。

この性癖は、けっこう年を重ねても治らない。最近も、アイススケート世界選手権女子の部で、日本の佐藤有香選手の決勝戦は見なかった。これが外国選手だとまったく平気なのだが。

相手の気持ちを知る。相手の立場に立つ。共感的理解とは、看護の中で絶えずつかわれる言葉である。そんな意味で、この性癖は看護職の私にはプラスであった。数度の病気、入院体験は、それを増幅していたようである。

だが、この性格のマイナス面を、老いた今、痛感させられている。相手の痛みや弱みには触れないようにし、相手の望んでいることは、時には自分を殺して受け入れ、同調迎合する。そうすると、相手によっては、私という人間が自分の思うように何でも受け入れるのは当然と思い、そのとおりにいかないと、不信、不満になっていることを知らされた。これでは、真の人間関係や友情は育たない。

老病死苦に直面し、自分の人生を大切に、主体的に生きようとしたとき、他者への迎合など、自分の心に背くことは、相手をも背くことと知った。だが人により、裏切られたと思われ、今までの対人関係に、いささかの不調も出たように思う。そして、私自身も年のせいか、我ながら頑固になってきたと思う。しかし、感謝してこの世を去るためにも、私は自分らしさを大切にし、自分に正直に、残された日々を過ごしたいと思っている。(執筆年不詳)

 


vol.4 
日本人の宗教観を思う vol.5 拙宅へどうぞ vol.6 老いを生きる日々
vol.7 生涯未熟 vol.8 ファッションって、どんなこと vol.9 うどん屋の釜
vol.10 ラジオ深夜便からのメッセージ
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