尾崎 雄 Ozaki Takeshi

1942生まれ。65年早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。札幌支社報道課、流通経済部、婦人家庭部次長、企画調査部次長、「日経WOMAN」編集長、婦人家庭部編集委員などを経て、日経事業出版社取締役編集統括。高齢社会、地域福祉、終末ケア、NPO・NGO関連分野を担当。現在、フリージャーナリスト・仙台白百合女子大学総合福祉学科教授・AID(老・病・死を考える会)世話人。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほかがある。

 


 

市民の眼
医療福祉の断面やエピソードなどについて
医療職ではなく一市民として気づいたことが書かれています。

 

 
vol.16
 

地域にホスピスの新しい風が吹く

2003-9-08
 
 

 ホスピスに新しい動きが芽生えている。生と死のサポートというホスピス本来の使命を地域の中で果たしていこうとする試みだ。国の医療制度に従った緩和ケア病棟は全国に広まってはいる。だが、それらは、どちらかといえば点と線を結ぶ形に留まり、必ずしも地域に暮らす患者・家族をサポートする機能を十分に果たしているとはいいがたい。。点と線の確保にしかできず、癌という強大な敵地に対して実効ある攻略をできていない。旧日本帝国陸軍の第二次大戦における中国大陸侵攻や現在の米軍によるイラク占領と同様である。

 わが国の在宅ホスピスケアも点と線での医療である。やる気と使命感に燃えた一握りの医師や訪問看護婦たちが、孤立無援のまま、終末期医療に携わっているのだが、それらの崇高な戦いは彼らの個人的な奮闘に留まり、他のホスピスケアに携わる医師やホスピス施設との有機的な連携は十分とはいえない。在宅ホスピス医のネットワークも臨床の提携というよりも情報交換の場に留まりがちだった。施設ホスピス(緩和ケア病棟)は全国120箇所に達したもののその多くは地域との交渉が少ない“閉鎖病棟“ないし、総合病院内の“特殊病棟”になりがちでコミュニティケアの拠点とは言えなかった。

 欧米のホスピス・ターミナルケアは在宅ケアが基本である。ホスピスという施設は在宅で終末期を送る患者さんと家族のためのバックアップ施設、在宅介護支援センター、ショートステイ施設なのである。ところが、日本の「ホスピス(緩和ケア病棟)」の多くは制度的に地域医療のための施設というよりも地域から隔離された“閉鎖病棟”になりがち。そうした隔離病棟が急速に増えてきたのは、医療者のホスピスケアに対する情熱や使命感によるのではなく、むしろ経営多角化など医療事業の経営的動機からだと指摘するホスピス医も少なくない。国の基準に合った緩和ケア病棟を作れば、患者一人当たり1ヶ月約100万円の診療報酬が約束されるからだ。

 聖ヨハネ桜町総合病院ホスピスの山崎章郎医師は10年間のホスピス勤務をやってみて、こうした「(施設)ホスピスの限界」を感じ、来年から施設でも在宅でもない「第3のカテゴリー」とも言うべき終末期のコミュニティケアを始めることになった。国立病院にも画期的な動きがある。豊橋国立病院の緩和ケア病棟(24床)開設計画である。この計画の最大の特徴は、そこを開業医が実施する在宅ホスピスのバックアップセンターにすることだ。事実上の開設リーダーと目される佐藤健医師は、ドイツ・ボンのホスピスを参考にしてプランを練った。地元医師会も乗り気で、佐藤医師は開業医の教育に乗り出した。国立病院としては珍しい試みで成功すれば在宅ホスピス展開のための「豊橋方式」として各地のホスピス活動に影響を及ぼすだろう。

NPO法人によるきめ細かい取り組みとしては、仙台の訪問看護師・中山康子さんが9月26日に在宅緩和ケア支援センターを立ち上げる。癌患者・家族のための「ケアサロン」やデイサービスの実施という画期的なコミュニティサービスを行う。また、NPO法人救命促進情報センター(理事長・中村直行氏)は、在宅医療情報の研究を始める。在宅医療関連企業を巻き込んで在宅癌患者への情報サポートシステムをつくるための研究だ。わが国にホスピスケアが紹介されて4半世紀。ようやく施設主義から在宅へと本来の姿へ立ち返ることになる。ホスピスケアはコミュニティケアの1分野なのだから。これらコミュニティケアのパイオニアワークの詳細については、今後、市民活動の雑誌などで報告していきたい。

                (2003年9月6日。老・病・死を考える会世話人・尾崎 雄)

 
 
vol.15
  「旬なスポット、六本木ヒルズ」は“バブル”の丘?
2003-6-12
 
 

 5月末、東北地方に旅行した折りあるJR駅で「六本木ヒルズ・ツアー」募集ポスターを見た。それにつられ久しぶりに六本木を訪れた私は仰天した。壮大なるコンクリート・ジャングルが忽然と出現。若いころ通い詰め私の頭にインプリントされていた旧い六本木地図は全く役に立たなくなっていたからである。「ヒルズ」の詳細についてはマスコミ報道に譲ろう。私の結論は、良くも悪くも「もういちど行って見たい東京の新名所」である。

珍しい風物との出会いと非日常的な体験による興奮が治まったあと冷静な思考が蘇る。六本木ヒルズという異郷も、3時間も歩くとエトランゼは「いったい、これは何なんだ?」という疑問を持つ。これは、“バブル”の再生産ではないかと。前世紀の遺物なのだ。それに気づいたのはメインタワーのトイレに入ったとき。窮屈なアプローチと狭いトイレのドア。車椅子利用者にとって、使いやすいとは思えぬ設計になっていた。すなわち21世紀のまちづくりの基本理念であるユニバーサル・デザイン(障害のある人もない人も誰でも不自由なく使える配慮)の理念が欠落しているように見受けられた。私は『日経バリアフリー・ガイドブック』開発責任者だったから、こういう点には目ざといのである。

エリア内にはほとんど樹木が見当たらない。ほんの申し訳程度の庭園らしきスペースや街路樹があり、花も植えてあるが、それは、むしろ「開発」による環境破壊の凄まじさを印象づける。ここのまちづくりの本質は「環境と弱者への配慮を欠いた20世紀型の巨大都市開発」なのだ。21世紀の大都市においては、まちづくりの原則は自然再生だと私は思う。緑なき巨大なコンクリート・ジャングル、六本木ヒルズは真夏になれば焦熱の丘と化すだろう。建設官僚だった前横浜市長は称して横浜・桜木町周辺に人工砂漠を造った。東京の民間デベロッパーは六本木ヒルズにコンクリート・ジャングルを“開発”した。私は4月に高野山に遊んだ。森に包まれた聖都はコンビニ1軒探すのも苦労するような不便さがあった。だが、それを補って余りある安らぎを得たのも事実である。なぜ日本人はワシントンD.C.のような緑に包まれた町に目を向けず、ニューヨークのようなコンクリート・ジャングルに憧れるのだろうか。

近代医学はハイテクとそれを支える経済力によって患部や病気の治療に専念した結果、難病克服の目的を果たしつつある。だが、その一方で、人間を身体と心の総体としてとらえ、患者を人間として接する全人的医療の影が薄くなっている。そのギャップは広がるばかりだ。人間のためのまちづくりのはずだった「都市再開発」も開発手法の高度化と人間不在の思想によって医療と同じ道筋を辿っている――横浜の陋居へ帰る途上、そんなことを考えてしまった。

             (2003年6月7日、尾崎 雄=老・病・死を考える会世話人)

 
 
vol.14
 

大学教授になって11ヶ月。急逝したAさんを悼む

2003-4-01
 
 

3月28日、全国紙の編集委員から大学教授に転進して亡くなったA氏のお別れ会に参列しました。A氏は昨年4月、文化部編集委員を辞して関西の私大教授に就任。今年2月、単身赴任先の大阪で吐血し、奥様が駆けつけて病院に担ぎ込み手術をしたものの同月27日に逝去しました。享年58歳。死因は胃潰瘍の出血多量による多臓器不全でした。

お別れ会には故人の交際の広さを物語るように各界名士が多数駆けつけました。ダークダックスとボニージャックスがそれぞれ一曲、この日芸術院賞と恩賜賞をダブル受賞した邦楽家、芝祐靖が笛の演奏を霊前に捧げた、と書けばその広がりと雰囲気が想像できるでしょう。京都・嵯峨野の寂庵から瀬戸内寂聴さんが書き送ってきた追悼文は、読み応えのある短編小説のようでした。追悼挨拶の締めくくりは国際交流協会理事長。送る言葉の多くは一様に故人の猛烈な仕事人間ぶりに驚嘆し、それを止められなかった無念さがにじんでいました。家族が救急車を呼ぶと「まだ仕事が一つ残っているから、待て」と制したというエピソード。人一倍社業をこなしながら文壇、芸能界、放送界、メセナ……と八方に義理を欠かさなかった故人の人柄が髣髴されます。

「とにかく面倒見がいい人」「頼まれると嫌といえない性格」と、著名人たちは口を揃えていました。A氏と同じ新聞社に居た私は彼のお陰で原稿をモノにできた思い出が何度もあります。引き受けたら自分との妥協を許さずトップギアのまま走り続ける仕事人間がいますが、A氏はそのタイプでした。新聞記者時代に各界から引き受けた社会的な仕事プラス大学の講義および諸委員会など校務を目一杯抱え込み、ギアチェンジせずに真正面から取り組んでいたはずです。ただ、そこは一般社会の常識が通じない大学という異界。過剰にエネルギーを奪い取られ、仕事に「忙殺」されてしまったのではないでしょうか。

私が知るお別れ会としては最も“豪華”で心のこもった集いではあったものの、私は、いまひとつ納得できぬ思いで立ちすくんでいました。その思いが頂点に達したのは、未亡人が挨拶に立ったときです。その言葉は私の心に突き刺さりました。

「もっと気をつけてあげれば、こんなことにはならなかったはず。ああしていれば、こうしていれば、生きていたかもしれません。できることなら、もう一度最後の一ヶ月をやり直したいと思います」。遺族の心の傷は深かろうと、心配でなりません。

本人の命を奪い、家族にそんな悔しさを強いる「仕事」とは? 「仕事って自分の命や家族よりも価値があると思いますか」。会場で顔を合わせた新聞関係者の一人に尋ねると「それは、彼を突き動かす何かだったと思います」と真顔で答えてくれました。

奇しくも、私はA氏と同時に別の女子大に教授職を得ました。A氏は1年を待たず亡くなり、私はまだ生きています。ただ、大学教授は本日、3月31日限りで辞めます。その理由は一言では語れませんが、非常勤講師を2年やり、何か「予感」がしたため1年で教授の仕事を返上しようと決意したのです。それにしても「仕事」って、いったい何でしょう。皆さんは、どう思いますか?            
               
               (3月31日、仙台白百合女子大学教授 尾崎 雄)


 
 

 

vol. 1 草の根福祉の担い手  マドンナたちの後継者は?  
vol. 2 在宅ホスピス普及の鍵を握る専門看護婦に資格と社会的地位を
  
vol. 3 <NY“脱出”速報>


vol. 4 ホスピス・ケアはアジアでも「在宅」の波?  
vol. 5 青年医師の決断  −ニューヨークのテロから学んだこと−
vol. 6 「恐い先生」と「やさしい先生」 −東京女子医大の医療事故隠蔽事件のニュースから−


vol. 7 「9.11」のニューヨークから4ヶ月−生還者たちの様々な思い−
vol. 8 介護保険で介護負担感は軽くなったか?−サービス利用料が増えれば実感がわく?−
vol. 9 在宅ターミナル・ケア25年。先駆者、鈴木荘一医師の軌跡

vol.10 訪問看護婦、ホスピスナースは「ハードボイルド」だ!?
vol.11 車の片輪で走り出した高齢者福祉? 成年後見制度 日独の違い
vol.12 東北大学が生んだもう一人の先駆者、外山義氏の急逝を惜しむ

     日本の高齢者介護の改革を促した人間建築デザイナー

● vol.13  旅だち―ある女子大の卒業式にて