我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
 vol. 7
  祖母の語る歴史
2002-5-30
 
 

父が末っ子であったためか、私が生まれた時は、父方の祖父母は亡くなっており母方の祖母だけが残っていた。祖母に私が初めて出会ったとき、祖母は母の長兄の家の離れの座敷で机の前に座っていた。
 後に本箱が置いてあり、確か「大日本史」と書かれた本が並べて納められていて、背表紙は藁黄色、金文字も古びていた。名前だけは知っていたが、歴史でならった昔の本がどうしてここにあるのか、祖母が読んでいるのか、文人といわれた伯父の蔵書なのかもしれないが私には怪訝に思えた。机の上には「大法論」という仏教の雑誌が置かれていた。
「アイ子か?」
と、17歳で初めてみる孫の顔を、祖母は眼鏡の奥から眼を細め感慨深げに見つめていた。
 会ったことのない従兄たちが「インテリばあちゃん」と名付けていたと聞いていたが、成程とその時私は思った。地方随一の商家といわれた家で、祖父が事業に失敗したあげく、斃死、一家離散となり、母は他家にあずけられて育った。それ故に、母は実家に疎遠であった。母にはもう一人私たちが「原瀬のばあちゃん」という方がいた。育ての母だったらしい。

 昭和29年、84歳で祖母はこの世を去った。最後に母と見舞いに訪れたとき、まだ意識のあった祖母は、私の差し出す吸い呑みからカルピスを美味しそうに呑んでくれた。
 祖母が亡くなり、葬儀の折、伯父が代議士だった関係から当時の山だ二本松町長が葬儀委員長を引き受け「告別の辞」を寄せてくださった。この葬儀に私は参加できなかったが、後で伯母が弔辞を小冊子に印刷し私の許にも届けてくれた。

 「刀自は旭村、百目木の豪家渡辺半右エ門の二女とし生まれ、(中略)・・・氏はまた松島に遊んだ浮世絵師広重を迎え、逗留数カ月、百目木八景を作製せしめました」とあった。私はかつて日本橋高島屋でこの版画を見たことがあった。百目木という記憶のなかにある地名が私をとらえたからである。更に見たことのない祖父について「一獲千金を夢見て瀬戸内海の要港糸崎の埋立工事や常磐鉄道工事、三春煙草専売工場の建築、一方では郡下3位の143個の「折返し製糸業」を経営するなど手馴れぬ事業に手を出しましたので・・・云々」とあり地方史に残っていそうな興味のある人物も登場してくる。
 ところで、私は女学校以来歴史はあまり好きな科目ではなかった。 だがいかなる学問も、その歴史から論じられる。これは放送大学で学んだことでもある。老いた今頃、そのおもしろさと重要さがわかり、避けて通ってきたことを大いに悔やんでいる。
祖母の部屋で見た「大日本史」は徳川光圀が明暦3年に編纂に着手、明治39年に完成されたことを知った。また、百目木八景の版木は今も渡辺家に所蔵されていると聞いた。
 この頃祖母が歴史や文化について語りかけてくるような気がしている。そして、老いた今になって私の歴史に対する関心も興味も深くなり、飢えたように、テレビの歴史番組を視聴しているこの頃である。

 

 
 
vol. 8
  我がペンペン草への思い
 2002-7-17
 
 

よく見れば薺花咲く垣根かな
                (註 続虚票)

 芭蕉のみちゆく紀行のおり、我が故郷の町の近くでの俳句と小学校の頃聞いた記憶がある。
地味な小さい白い花。春の七草だが、屋根にペンペン草の如く、何処にでも根づく強い野草で
ある。

 18歳で故郷を離れ、8度ほど住居を変えたが、何処に住んでも私は近辺にこの草を見つけ
ることができた。そして、何故か自分がこの草のように生きてきているように思えたりする。幼時
の摘み草の思い出と共に私の心に根づいて生きているに違いない。

 子供の頃、草萌える春、陽ざしが暖かくなると、待ちかまえたように、妹や近所の子達と、小
さな籠と、三角の先の尖った余り切れない小刀を持たされて、なずな摘みに出た。我が家から
少し離れた山畑の小路や、桑畑の畝などがなずな摘みの場所だった。ある時地面ばかり見な
がら夢中で歩いて、何時の間にか、「人焼き場」と言われた建て物の見えるところまで行ってし
まい、何となく怖くなって駆け戻ったこともあった。

 摘み草の頃のなずなは、タンポポに似たぎざぎざの葉だが、より繊細で小さく、中心から四方
に何枚も地を這うように広がり、葉裏を地につけながら、陽の光をいっぱい受けて生えている。
そして日陰に他の雑草に混ざらないで生えている限り、薄緑というより赤茶色の如何にも野草
の風情がある。

 小刀で土の中の白い根を切ると、土を離れ、くるりと葉裏にまいて小さくなる。家に持ち帰り、
籠から広げると母は丁寧に枯葉やゴミを除いた。洗って茹でるとやっと一握りのおひたしになる。
家族一人一箸位だが、甘く土の香りがして、春の恵みを食べているような美味しさである。

 このなずなを盛大に摘んで満足した想い出がある。栃木県、自治医大の教職員住宅に住
んでいた頃、新大学キャンパス内の造成地の広い場所になずながぎっしりと生えていた。
摘みたい!と思ったが、誰も関心がない様子。同郷の石井看護部長さんを誘い、二人で心
ゆくまで摘んでいた。キャンパス内の医学生が、「何をしているんですか?」と不振気に声をか
けてきたことを覚えている。新設大学構内の、のどかな春のひとときだった。

 食べられる野草は多いが、私はなずなが一番好きである。その後八百屋で買った葉菜2種
となずなと3種のおひたしを愛知県出身の鍋島看護部長さんにおすすめして、「どれが一番
美味しいですか」とお尋ねしたところ、「これ」となずなを指されたので、私は、我が意を得たりと
満足だったことを覚えている。春の七草にひとつだがどうもなずなを摘んで食べるのは福島県の
一部の地方だけらしい。

 ところで私は、頚椎損傷で手足の自由を失い、筆を口にくわえて草花を描かれる星野富弘
氏の詩画が大好きである。氏の葉書や本を人に贈ったりする。そして氏の作品の中で一番好
きなのがペンペン草の詩なのである。

 成長して三角の実をつけたペンペン草がしっかりと描かれ、傍に詩がある。

  神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら、
  母の肩をたたかせて貰おう
  ペンペン草の実を見ていたらそんな日がくるような気がした
(一部略)

 この画と詩を読むと、私は必ず、涙が滲み出てくるのである。

 
 
vol.9
  南十字星を見た頃
2002-8-30
 
 

 病院船「ぶえのすあいれす丸」は南支那海をひたすら南下していた。初めてのシンガポール航路だった。往航で患者さんのいない勤務は程々にゆとりがあった。今夜あたり南十字星が見えるという船員さんの情報に私達看護婦はそわそわしていた。そして夜になりデッキに出て、白いユニフォームのまま仰向けに寝て天に向かい合ったのである。

 南方の海は何時も荒れることがない。船は軋みながら正確なエンジンの鼓動をまるで生き物の心臓のように私達の身体全体に伝えてきた。そして右舷に左舷に大きくゆったりと揺れ、それと同時に眼前の天空も大きく揺れる。天を向いたまま左右の地平線が上下するのが見えるのである。

 しばらくして行く手の空の、水平線から20度位の高さにそれらしい星を見つけ出した。「あれかしら」「きっと、そうよ」「そうだ」と、私達はそれを確かめ合った。美しい、空にかかる十字架である。赤くにぶい光を見せる4つの星は私達の赤十字とは違う。まさにキリストの十字架に見える位置で天空に横たわっていた。

 故国を遠く離れ、20代の私達はロマンと感傷の中で南十字星を見た。遠い日の遠い旅路の星の思い出である。あの頃は星への関心も強かった。オリオン、昴、北斗星と月並みな正座はすぐに見つけ、まわりの星座も知っていた。

 そうだ、その後、意識を失って草むらに倒れ星に起こされたことがあった。34歳、開腹手術の後故郷の家で療養していた。ある日近くの親戚に貰い風呂に行き、気分が悪くなり、家に帰る途中で倒れたらしい。気がつくと、チカチカと刺す様に光る満点の星が仰向けの目いっぱいに輝き、語りかけるように瞬いていた。眼前に北斗七星がのびていた。東北の地の冬空だった。

 その後、何時の間にか星への関心をすっかり失っていた。思えば多忙な人生だった。今ゆとりある老いの日々、我が窓から星空が見える。だがあの頃の感動はない。都会の汚れた空気の故だけとも言い切れない。

 若き日の夢去りぬか、感性の鈍化か、夜空を仰いで複雑な思いにひたっているこの頃である。