我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
vol. 4
  母の歌
2002-3-28
 
 

 母は明治32年生まれ、それでミジと名付けられたという。
母の声はやや高音で、細く長く糸を引くように歌う。否、そんな歌を好んだのかも知れない。針箱に象牙のへら、蟹のつめのような和鋏、指し尺。そしてズバリとよく切れるので、子供たちが「裁ちの介」と勇ましい名を付けた洋鋏、反物。それらが艶のある欅の裁ち板の上にそろえられていた。座布団の上には、主役の母が座り、縫うことに専念しはじめると、母の歌が口をついてでてくるのである。

  山路こえて/一人ゆけど/主の手にすがれる/身は安けし……。

背縫いとか脇縫いのようなチクチクと真っすぐに長く縫うところになると、母は首を少し傾け、我が歌に調子を合わせるように、糸をしごき首をもどし、そんな仕草をくり返しながら歌うのである。
長女の私と4人の弟妹たちは何時もにぎやか、雨の日など家中ドタバタ駆け回っていた。だが、母の縫い物が始まると、何時の間にか静かに母の周りに、ゴロゴロと寝ころびながら纏わりつく。
母の歌った数曲の美しい歌が賛美歌であることを知ったのは長じてからのことだった。母は教会の幼稚園で教わったというが、幼稚園のない町に育った私たちは羨ましかった。

  行こうか戻ろかオーロラの下を/ロシヤは北国はて知らず……。

この唄を聞くと、遠く寒く淋しいロシヤという北国を思い悲しくなった。カチューシャの唄、ゴンドラの唄、浪子と武雄の唄、母の青春は大正ロマンの時代だったのである。
母は子供たちが小学校、女学校でならってくる歌を次々とよく覚え一緒に歌った。

  昭和!昭和!昭和の子供よ僕たちは……。

この元気な歌も母が歌うと、スタッカートが無くなっていた。弟は元気がよくて、ワッショ、ワッショ、ワッショの子供よ僕たちは……と歌っていたのだが。
ある日、母が「アイ子、今夜宇山さん家の裏にこっそりといって、ラジオの関屋敏子の歌を聞こう」と、やや興奮気味にいいだした。関屋さんは当時の有名なソプラノ歌手で、母と同郷の二本松の人。隣近所でラジオがあるのは電気会社に勤める宇山さんの家だけだった。父は丁度当直で留守、母は3歳ぐらいだった下の妹を両手で背負い、3人で薄明りの裏窓の下に息をひそめて立ち尽くした。
幽かに聞こえるソプラノの声、歌はなんだったか、母の身近な息遣いが今も耳に残っている。そして、母の背に居た妹ミヨ子もよくその時のことを記憶しているという。

 
 
vol. 5
  父の帰り路
2002-4-14
 
 

 ポーッと停車場を発車する汽笛の音が、冬の空に遠く幽かに聞こえてくる。午後7時前後、父の降りた東北本線の小さな本宮駅を発車した合図である。と、とたんに我が家の子供5人が駅を後に父と共に歩きだす。ただし、家のなかで。口の中で。

口を尖らせ、声をそろえて、トットットットッ、阿部写真屋の前通った。トットットットッ、役場の前、トットットットッ、谷病院の前……と。小学生の上の弟昭一が一番調子にのって、大声で元気よく、本当に父と一緒に歩いているように動き回る。
母は飯台をひろげ、食器を運び夕飯の支度に余念がない。台所から美味しそうな匂いが漂ってくる。皆、腹を空かしている。早く父の顔がみたい……。トットットットッ庄屋の裏。トットットットッ明神様の下……。

このトットットットッの間は、父の歩く歩調と目標となる建物、場所の距離を考え、結構勘を働かせる必要がある。妹弟たちはこの道をよく知らない。毎日父と同じ道を通り、郡山市の県立安積高女まで汽車通学していた私が一番詳しい。この遊びを思いついたのは誰だったか、私だったのかもしれない。長女なるが故に、妹弟に上級で習った歌を教え、コーラスの指揮をとり、学芸会の劇を覚えてきては他のクラスの劇をそっくりそのまま妹弟に役を与えせりふを教え、自らは舞台監督で我が家の床の間劇場で上演していた。女学生になっても大人げない私はこの遊びに興じ、駅から家まで約20分、始めは妹弟の道案内と時間の間どりを務めていたのである。
母も子供たち同様、父の帰りが待たれた筈だが、5人の子供たちの大騒ぎには慣れたもの、またかといった調子でときどき顔を向けるばかりである。私の台所の手伝いは程々に済ませた後のようだった。

トットットットッ、馬市場を通っている。だんだん家に近付いてくる。アッ、角曲がった。橋渡った。父の靴音が聞こえてくる。我が家だ……というと、ガラリ、入り口の戸が開いて父が皆の前に立つ。「丁度おんなじだ!父ちゃんと一緒に停車場からあるったんだ」。子供たちの興奮と大歓迎に無口な父は、初めてこの遊びをしたときは驚き戸惑っていたが、そのうち慣れてまたかと、上機嫌な笑顔をみせ、子供たちの喜びと興奮は何時も最高潮だった。
これは、それほど長続きしたわけではなかったが、遊びと、空腹と、なによりも父への敬慕とが入り交じった、昭和初期のある田舎のサラリーマン家族の、素朴なホームドラマのひとコマである。

 

 
 
vol. 6
  「ラ・マルセイエ−ズの思い出」
2002-5-3
 
 

 フランス革命二百年にあたる昨年、盛大なイベントの模様がパリからテレビ放映されていた。
みるともなく観ていて、思わず一つのシーンに釘づけになった。私の好きな歌、ラ・マルセイエーズが歌われだしたからである。
流れるような襞のドレスを装った女性の姿が夜のライトに浮かんだ。恐らくフランス第一の本格的な歌手であろう。堂々と、力強くフランス国民の歓喜と誇りを全身で歌いあげていた。

マルション マルション カンサン アムピュ− ア−プル グノーセーション

(私の記憶のまま)、思わず唱和していた。
私はこの国歌を昭和7年、小学6年の時学芸会のため、意味は全くわからぬまま英・米・独の国歌と一緒にカタカナの原語で教わった。
劇の題は「大平洋」。日英米仏独5ヶ国の船が大平洋上で出会い、それぞれの国の船員が国旗を手にその旗の由来を語り、国歌を斉唱して立ち去るという単純な筋だが、原語で国歌を歌うのは小学6年には難しすぎた。
劇中の私の役は、大平洋の太と書いた銀色の波型の冠に水色の透けた、たっぷりとしたベールをかぶり、平、洋、と共に最初に少し台詞を言うことだった。一番先に口火を切ったのは私だけだが、

……マゼランこの海を横断してより……

と、今も記憶している台詞はこれだけである。
しかし、船員役の歌う外国国歌が難しく、迫力にかけるので、大平洋の3人は後に立って全部の国歌を覚えて唱和しなさいと担任の桑原先生からの命を受け、一所懸命に覚えた記憶がある。ラ・マルセイエーズがその中でも素晴らしいと感じるようになったのは長じて本格的な歌を聞いていたからであった。
最近では、毎年7月、武蔵野市民文化会館で開催されるシャンソンの祭典パリ祭で聞かれるのを楽しみにしている。
卒業後50年たって、初めて小学校の同級会に出席した時、一番私に会いたがっていたと聞いた、渡辺チイちゃんに会ったが、その時までどうしても思い出せなかった。しかし、その時この歌を最後まで歌ったのはチイちゃんと私だった。紛れもなく同級生である。彼女は平か洋の役立ったのかもしれないと後で思った。

それにしても、あの時代にあのように難しいインターナショナルな劇を強行させた桑原先生の意図が今頃になってやっと分かったような気がする。思えば5年次担任の大島先生は会津若松の連隊に短期入隊され、帰られて早々だった。講堂で私たちの練習が始まり、日本の国歌を歌うと、さっと姿勢をただし、担任の頃とは違った近寄りがたい威厳さえ感じさせられたものである。

昭和7年、そろそろこの国の政治は右よりの方向に歩み始めていたのであろう。あれは、大正デモクラシーに生きてきた桑原先生の主張、もしくは抵抗の手段だったのかもしれない……。