我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
vol.31
  私の糠味噌漬け
2004-8-12
 
 

 最近、NHKテレビで「私の取って置き」をいう番組が始まり、タレントの和田アキ子さんが、愛蔵の糠味噌持参で登場した。手を入れて、何度も何度も掻き回したであろう糠床を容器ごと宝物のようにいと惜しんでいる様子に、彼女の人柄や育ちを見た思いで共感が湧いた。私自身の、かつての糠味噌漬けへの執着がそう思わせたようでもある。

 53歳まで、私は看護師寮で暮らしていた。最後に住んでいた、日赤養心寮の通称婦長長屋の隣人は「谷本のおばあちゃん」だった。ナイチンゲール受賞者でもある谷本竹野さんは、60歳を越しても寮暮らし、謙虚で穏やかな大先輩を私は敬愛していた。私が糠漬けを始めたのは、彼女に糠漬けを食べさせたいという思いからだった。

 思いつくとすぐ、私は樽まで買い込んで漬け始めたが、発酵がまずくて、樽ごと捨てるはめになった。2度目は、タッパーの密閉容器を用意した。毎日、胡瓜、茄子、キャベツと漬けこんでゆくうちに、だんだんそれらしい味になってきた。早く漬かる胡瓜、遅い人参。茄子、茗荷、生姜も美味。遂にピーマン、セロリもレパートリーに加わった。季節ごとの野菜をつけてはそれを食堂に持参、おばあちゃんだけでなく、食卓を共にする誰彼となく食べて頂いた。

 私の糠漬けは決して素手で掻き回していたわけではなく、否、そんなゆとりもない時が多くなった。時々スポンジで水気を取り、塩と市販の炒り糠を足してゆくだけだった。だが、味はだんだん良くなり、3年目頃は、我ながら天下一品の味、食べ仲間がそういってくれるのは、お世辞ではなかったようである。遂に、会食の時には婦長さんの糠漬けと注文が来るようになった。

 その後、転勤で寮をでたが、私は糠床をゆく先々、後世大事に持ち歩いた。

 自治医大付属看護学校の職員住宅暮らしの頃、県内出身の学生笠井さんから今まで見たことのない瓜を頂いた。秋口だったと思う。淡黄色で下ぶくれ縦長、ざらざらした肌。この糠漬けが美味、柔らかい歯ざわりがあり肉質に癖のない味、私にとってはベストワンだった。最近近くの八百屋で見つけて新しい糠床に入れた。やはり美味しい。隼人瓜という名を店主から聞いた。

 埼玉衛生短大の頃は、電車のなかの匂いを気にしながらも時々あれこれと漬けて研究室に運んだ。

 しかし終の住み家かもしれない現在の我が家に例のタッパーの中味はない。70過ぎて、私の胃は漬物を受け入れなくなった。時々食事をご一緒する隣人の高橋さんは漬物嫌い。気がついたら我が糠床は異臭を放っていた。残念、無念、未練が残ったが捨てるしかなかった。

 去る3月、我が家でのクラスの集まりに同級生の木本さんが、糠床に入れた糠漬けを持参。皆で頂いた。さすが年季の入った味、私は弁当大のタッパーにその糠味噌を移した。普段は冷蔵庫に入れておき、来客があると庫外に出し少量の材料を漬ける。時々炒り糠、塩を足し自分では味見程度だが客人にしつこい程聞いてしまう。「どう?美味しい?」と。この頃の私は昔の味を目指し糠床の敗者復活戦に挑んでいる所である。

                                       〔平成7年〕

 
 
vol.32
  晩学の記
2004-10-5
 
 

 69歳の時、思い立って放送大学に入学。以後5年、先日今期での卒業認定の通知を受けた。

 旧制高女卒の学歴では、大学入試の資格がなく、特修正コースからの出発だった。加えて、進む老化と、入学翌年に強度の貧血を主症状とする難治疾患の発病が追い打ちをかけた。再三の入院、治療薬の副作用に悩まされ、体力、知力に加えて意欲にも限界を感じた時もあった。だが、総じて、適度の緊張の中で、学ぶ楽しさを満喫し、時には老いも病いも忘れ、充実した5年間を過ごすことができた。

 入学の直接の動機は、65歳で定年退職後、週1回楽しく通っていた老人大学で、初代放送大学学長、香月秀雄先生の「知ることを求めるひとのために」と題する講演を聴いたことによる。放送大学開学の経緯、その特殊性の説明に惹かれ、私は老人大学から放送大学へ転じた。平成元年。後期の入学である。

 1年目、全科履修生が優勢されるため、特修正の私は、教室で講師から直接講義を聴く面接授業が受けられず、専ら、この大学独自のテレビ、ラジオ放送による学習となった。

 憲法概論。樋口陽一東大教授の担当である。戦前に生まれ、太平洋戦争には赤十字看護婦として参加した。戦後の看護教育は米軍司令部の指導によって制度も改まり、大きく変化した。時代の要請に応じ、更に変化する教育カリキュラムに対応するための学びに追われ、一般教養的な知識には手が及ばなかった。新しい時代に生きるための常識としての新憲法も、その本質は理解していた心算だが、漠然としたものがあった。

 テレビを視聴しながら、「ああ、そうだったのか」と大きく頷き、思わずテレビの講師に拍手を送り、終わると「有難うございました」と頭を下げていた。知ることの喜びに高揚してしまった自分におかしくもあった。

 大学での私の専攻は「発達と教育」である。「そうだったのか」と知ると同時に「こんなことも知らなかった」とか、「このことをもっと早く学んでいたら」と悔しさも加わってきた。戦後半世紀たち、看護学校のかつての養成所から、今年は31校の大学を擁する時代となった。私の母校も専門学校、短期大学、4年制大学へと発展、先年大学院も設置された。

 ある時期、私はその任ではないと固辞したが容れられず、母校短大の責任ある地位に在職していた。新時代のカリキュラムは、私の知識を超える内容のものだった。英、米等に海外留学した若い職員から学び、難解な学術書を開いての自己学習は、私には苦難の道であり、学生にも詫びたい思いであった。しかし、看護教育の過渡期であり、次代を担う人材にバトンを渡すまで誰かが果たさねばならない役割、と自分に言い聞かせた。

 放送大学の学びは、当時の私に必要な知識が盛られ、あの時代に学んでいたらと思いつつ、「知は力なり」を実感させられる毎日だった。

 最近、戦後日本看護界のリーダーであり、ナイチンゲール賞を受けた、湯槇ます氏の自伝『グローイング・ペイン』を読んだ。書名は氏が東大医学部に衛生看護学科を開設する時の「生みの苦しみ」を表している。2度の海外看護大学への留学、学問的にも日本のトップレベルに在った氏の、日本看護界の先駆者としての悩み、苦闘の偉大さを知り、私ごとき者が、弱音や弁解を言い得るものではなかった、と痛感させられた。

 だが、私は放送大学で学びながらだんだんと、もし卒業証書を手にしたら、それは私の教えた人、教育の職場を共にした人達への「詫び状」ではないか、と思うようになった。

 来たる25日、私は卒業証書を手にする筈である。手にしながら、私は心の底でそっと彼女らに詫びを言うだろう。間に合わないけれど、努力したことを・・・・・・。

 この大学に入学して、私の一番うれしかったことがある。それは老いた私の学びに刺激され、私が教えた学生、職場の後輩など十指に近い人達が放送大学で学び始めたことである。私は一番、この人達と卒業の喜びを分かち会いたいと思っている。

                                   〔平成6年 9月〕

 

 
 
vol.33
  呆けまいぞ!我ら64回生 2004-12-15
 

 最近クラスメートが集まると、大半がお互いの物忘れ、呆け実感の話題になる。先日も十数人が一人暮らしの我が家に集まった。

 「あのね、あの人のあれとか、あそこのあれとか言っているとますます駄目ですって」と梶山さん。「そうよ、でもとっさに出てこないのよ。人の名前、固有名詞がね・・・・・・」と杉本さん。「私も」「私もよ」とお互いの実例、失敗例を挙げて得々とご披露におよび賑やかである。全員73歳を越えた。

 「この林檎のチョコレート美味しい。どこで売ってるの」「あの神戸の何と言ったっけ、東京では高島屋にきり出ていなかった・・・・・・」「神戸の一番館よ」とさすが一番若い古関さんの助け船。「そうそう、それがね、近くの近鉄であの日・・・・・・」で私は絶句。思わず「私はあげたことも貰ったこともないので出てこないけど、チョコレートの日」「バレンタインでしょう」とまた古関さん。「そうそう、その日の近鉄のドイツ菓子屋、モロゾフでないもう1軒あったでしょう。」

 ここまで来たら、今話したばかりのあそこのあれで四苦八苦の私に聞いていた周りが吹き出してしまった。「そういうふうに私も忘れるの」、しまいには皆で、涙が出るほどの大笑いになってしまった。吉原さんなど次に見えた時「これは貴女にお土産、ユーハイムだったわよ」とくだんの品、降参である。

 物忘れが話題になるのは、それが呆けと隣り合わせに思えるからであろう。喜寿でこの世を去った父は、脳血管性の痴呆があった。

 趣味の見事な鉢植えを幹からばっさり切り落とし、香港フラワーを大事そうに鉢植えにして母を悲しがらせていた。鉢を見ながら涼しい顔の父にユーモアさえ感じてしまったが、その後、有吉佐和子の「恍愡の人」を読んで、人間の老いの痛ましさに愕然とさせられた。

 そして、急激な高齢化社会の突入で、多くの呆け情報は、我らが老いを待ち伏せしていたかのように、我が老いの身にも迫ってくる。

 老人の環境の急変、孤独、無為な暮らしは呆けを呼ぶ。病と伴連れの私の一人暮らし、出掛けることも少ないが、やることやりたいこと多々あり、それに訪ねて下さる友も多い。そして、赤十字看護教育を共にし、同時代を生きてきたクラスメート。時々集まってくるが、嫁の悪口は殆ど聞かれず、さすがと私の尊敬する級友である。

 呆けまいぞ!我ら64回生。自己を客観視し、自己受容出来る人たち、今のところ、共に健全な老化への道を歩んでいるようだ。

                                        〔平成7年〕