我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
vol.30
  私と家族
2004-7-10
 
 

 今年は国際家族年である。18歳で家族のいる故郷を離れ、今日まで一人暮らしを続けてきた私にとり、「家族」とは憧れであると同時に、深く考えさせられるテーマでもある。

 40歳代の頃だった。当時在職していた日赤看護短大の戴帽式後の祝賀パーティーで、司会者から急にお祝いのスピーチを求められ、次のように言った。


 「私は今、寮に在住し、勤務を終えて帰ると、コトリと部屋の鍵を開け、待つ人のいない冷たい我が家に帰るが、皆さんは看護婦として自立したら、どうぞ、愛する夫、子供の待つ温かい家に帰って下さい。」と。

 戴帽式の祝辞に相応しい内容とも思えないが、私の本音だった。この人達が先頃、卒業後20周年のパーティーを開き、その席で私宛の寄せ書きを届けてくれた。或る一人は「キャッピングでのスピーチが思い出されます。まだその願いは叶いませんが」と書いていた。

 青年期と言える時代、一人前に人を愛し、愛されることもあったが、戦争や病気が行く手を阻み、私は「新しい家族を創る」という願いをきっぱりとあきらめてしまった。

 50歳代、成人看護学概論という授業を担当、講義の時、思春期から青年期の心理的特徴について話した。「私にもこの時代があったが、あの頃の甘い切ない男性への思い、あれはホルモンのなせる業であったか!」と言うと、若い看護学生はいっせいに笑い出していた。

 寮を出てからも、一人暮らしである。現在のマンションは駅から徒歩3分、少し余裕のある広さ、定年後も請われるままに幾つかの職場を歩いた故か、良き友人に恵まれ、訪問者も多い。教え子達や自分のクラスメート、10人程でミニクラス会になることもあり、家族に遠い私にとり何よりの喜び、楽しみでもある。

 数人の友人を呼び、手料理の腕を振るい。宿泊人があると、夕食、朝食を共にし、家族の雰囲気を味わう。食卓は時に、勉強会や討論の場ともなり、私に知識や情報をもたらし、生きる力も与えてくれる。

 先日、それぞれの定年後を生きる、かつての職場の同僚が4人我が家に集まった。私を除く3人は結婚しており、話題はしばしば息子、娘、孫のこととなった。特にその中のお2人は、いわゆる戦争未亡人。仕事を続けながらその責を果たし、職場のトップとなって退職され、今は立派に成長された息子、娘、孫のいる家族の中で、安らぎの日々を過ごしておられる。

 そんな話題の中にいて、思わず私の口から出た言葉。
「人生もここまできたら結論が見えたみたい。私は働いていた頃は、一人暮らしのマンション住まいの気楽さを、時間、空間思いの儘とか、無い子に泣かないとか言われて、半分納得していたけれど、やはり、子を産み育て、人生をまっとうに歩いて来た人にはかなわない」と。3人とも黙ってうなずいておられた。

 五味さんは、ついこの間、硫黄島で玉砕されたご主人の50年祭を靖国神社で催され、親族と残り少ない夫の友人を招き、弔事を読んだのだ、と話された。戦後、一人息子を信州の実家の兄嫁に預け、東京の保健婦学校で学んだ。幼い息子との辛い別れを、今は淡々と話される。

 最近、老人へのアンケートで「家で家族に看取られて死を迎えたい」という答が63%と出ていること知り、共感した。だが、時代は動き、家族の概念も変化してきている。

 かつて、必要があって取り寄せた私の戸籍上の家族が、死んだ両親と私だけであることを知り、愕然としたことがある。先日、朝日新聞の論壇で、樋口恵子氏の「国際家族年の理念を見失うな」という記事を読んだ。「恐らく一人暮らしを含めて、従来の血縁や戸籍にこだわらない新しい家族、家族何でもありの新しい時代の到来だ」と述べられておる。

 私には三世代同居を理想家族とする幻影がある。それには私の人生観や情念がからむ。

 一昨年、弟夫婦が故郷に新築した家に、私の帰る部屋を用意した。老いと病の高じる昨今だが、現在の生活に未練がある。老人は適応しにくい。決断の時に迷うこの頃である。 

                                        〔平成5年3月〕

 
 
vol.29
  老いを生きる日々
 2004-6-8
 
 

 今、この国の高齢者に、女性一人暮らしが圧倒的に多いと言われるが、私もその中の一人である。長かった寮生活の大半も一人部屋。以後、今日のマンション住まいまで殆ど一人暮らし。孤独をかこつこともなく、時間、空間思いのままの一人住まいを楽しんで暮らしてきた。

 武蔵野市には58歳の時、市の老人福祉政策を選んで移り住んだ。とは言うものの、その後の職場は隣の三鷹市から浦和市。3年間の年金生活の後、また4年の名古屋市へと、駅近い住まいが幸いでJRの通勤、市民意識も、地域への融和も疎遠になってしまっている。

 しかし3年前、難治の病を得て、かつての職場だった杏林大学病院に最近迄4度の入院を繰り返し、老いの一人暮らしに不安が付きまとうようになった。去る7月、発熱、6日間の入院時は白血球が800となり、数日間無菌室収容となてしまい、「老病死苦に真向かって生きている」の感を強くしてしまった。

 数年前迄のマスコミの老人問題への関心は敬老の日近くに集中していたが、年々高齢化社会が現実化し、この問題に関する情報は時期を問わず氾濫、時に我が身につまされ、私の老病の思いに追い打ちをかける。だが、生きているからには生き生きと、それなりに充実した日々を過ごしたいと思う。

 去る7月7日で73歳の誕生日を迎えた。が、まだ亡き父母の歳を越えてはいない。ここ数年の例で、ふるさとの郡山に住む妹からお祝いの百合のカサブランカが2本届く。それは東京の花屋でも見かけない大輪で、6個宛の華と蕾が仄かな香りで次々と咲き継ぐ。ラッピングがまた見事である。長方形の宅配便の箱から取り出すと、今年はひわ色とクリーム色の大ぶりの2枚の厚手の和紙に包まれ、ベージュ色の地厚のリボンで優雅に結んである。地方都市の花屋の主のセンスの良さと心意気に毎年脱帽の思いで、今年も10日以上、この花が部屋にあるだけで幸せを感じてしまう。

 また、寮生活を共にした水永さんからも、開業医の家業が一段落の夜10時頃、例年の如く、「おめでとう」の電話を頂く。彼女が子育てに多忙だった頃、私が仕事に熱中していた頃、お互いに疎遠だったが、お互いの暮らしを見つめてきた仲である。男女2人の子女を立派に育て上げ、ご主人と共に地域医療に没頭している彼女、日赤養成所卒業時、代表で宮妃殿下の前で答辞を読んだ才女の人生は流石と思う。今年は6月、ご主人出張の折、国立市の家を訪ね、美しい緑と花の大学通りのレストランでフランス料理をご馳走になり、尽きることのない話題に時を過ごしてしまった。

 同じ頃の友人、五島さんはボケ老人看護の第一人者としてすっかり有名になられた。関係の図書を発行の都度、贈呈して下さる。3年間年金生活の折、彼女の講演やNHKでの介護講座を視聴、また担当の介護相談窓口、老人のデイケアの実際を見学させて頂いた。当時私もまだ元気で、請われて介護福祉士発足時の労働省と関係機関の、主として教育や資格試験に関する手伝いをさせて頂いた。また念願でもあったボランティアを武蔵野市福祉課に申し込み、2人のボケ老人の訪問看護もさせて頂いた。だが、その時追求されたのは看護の技術より、長年の介護に疲れ果てた娘、嫁への支援であった。そしてその嫁なる人に「体力的に姑より国分さんの方が心配」と言われ、我が身の老いを自覚させられたことである。

 今年3月で職を辞し、30年ぶりで講義、講演が予定表から消えた。後は自分のために自由に生きたい。だが老いて病気と伴連れの日々である。病状の悪化は毎月の血液検査のデータでも否めない。

 看護婦としての知識や経験から、病気と上手に付き合ってきた。病気を忘れるほど熱中できた放送大学も入学後4年目になり、卒業の単位も残り少なくなってきた。知力も体力も並行して、低下しているが、やはり卒業証書は手にしたい。「自己実現」は私の放送大学卒論のテーマでもある。この頃一日は重く尊い。

                                〔平成5年 9月〕


 
 
vol.28
  診断の時 2004-5-18
 

 3年前、クラス会旅行の当番で司会をし、少し声を張り上げて以来2ヶ月、咽頭の痛みがとれない。

 外来耳鼻科の若い医師の前で診察台に「あ〜ん」と大きく口を開けた途端に「これじゃ治らないな」と後はつぶやくように言われた。30〜40歳代胃癌で2度手術を受け、制癌剤が多量に使用された。以来、私の貧血は徐々に進み、とくに白血球が少ない。看護職である私は、自分の健康は自分で守るという、それなりの自己管理をしてきたが、私の貧血には長い経過がある。素直に納得し耳鼻科の治療は受けぬまま、血液科の外来に送られて、ついに来るべき時が来たという思いが湧いてきた。

 初めてお目にかかる血液科の青木医師は「精査のため骨髄穿刺をしましょう」と事もなげに言われ、私は外来の白いカバーのついた堅い診察台の上に寝かされた。

 この検査の介助を2,3度したことがある。特有の太く短い針を、上下動で旋回させながら鈍い音を立てて胸骨に入れる。検査は仰臥位の患者の目前で行われ、不安と苦痛を誘うものだった。
 
 すでに午後に入った外来の診察室。間仕切りの白い壁に向き、医師に背を向けたまま私の検査は進められた。局所麻酔の針、血液が吸引された感覚が残った。胸骨ではなく、腸骨からの採血だった。ホッとした。全身の血管に循環する前の、骨髄で出来たての血液が検体である。穿刺の後に絆創膏が貼られた。「そのまま少し安静に」と言われ、私はいつの間にか、うとうとと診察台の上で眠ってしまった。

 「結果がでました。早く分かって良かったですね。さっそく治療を始めましょう」と青木医師は言った。「ご家族はご一緒にお住まいですか」とも言われた。少し気になる言葉である。

 病名ではなく異常蛋白血症という症状名が知らされた。しかし、結局私は正しい病名を故郷の弟を通して聞くことになった。私は、多発性骨髄腫という悪性の病名と、私が今後生きられるであろう予後を開き直って聞くことができた。これがわが闘病の始まりである。