我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
vol.27
  捨てる
2004-3-10
 
 

今年3月職を辞し、秋には熱中していた放送大学の卒論も何とか提出した。自然に時間のよとりが出てきたら、一人住まいの生活の雑駁さが急に気になり出した。

 昔、「暮らしの手帖」が創刊された頃愛読者だった。「整頓の3原則」という記事が出ていて、私はそれを自分の外科看護の授業に活用した。「置く、戻す、捨てる」である。外科病棟では無菌である手術創に絶対感染を起こしてはならないから、器材の清潔、不潔の扱いは慎重であり、管理上、整理整頓は特に注意しなければならない。

 その器材、その物が最も効果的に活用できる場所を定めて必ずそこに置く。包丁は台所に置き、床の間には置かない。使ったら必ずその場所に戻す。そして不要なものは潔く捨てるのである。

 現在の私に最も関心のあるのが「捨てる」行動である。大体仕事に没頭していた頃は、置く、置くの毎日だった。したがって狭い我が家はいつも雑然としていた。特に書籍、小冊子、コピー資料などの整理と、私服が多くなってからは、衣類の管理も苦手だった。だが一人暮らしで、最大の迷惑は自分自身にかかるだけ。通称婦長長屋に住んでいた頃は、日曜日の午前は、室内の掃除、整頓に追われ、隣の森婦長さんから、「国分さん、今日は最大の迷惑処理日?」とベランダ越しに覗かれたものだ。

 思えばそれに近い生活をひきずって生きてきた。そして一人暮らしの家の中には人生の垢がいっぱい溜まってしまった。さっぱりと整理して人生を心身共に快適に過ごしたい。第一思わぬ時に私の死が訪れたら、残された家族が、私の物の始末に当惑するに違いない。特に山ほどあるスナップ写真など、私の家族には全く見ず知らずの方々であり、捨てる外はなさそうである。心痛む作業であろう。

 先日、今の天袋から大きな布袋が一つ、出てきた。20年頃前、盛んに洋服を誂えていた。その残り布との再会である。平服でと言われたが、教員の大島さんの結婚式の時作ったワンピース、飯塚先生の沖縄旅行を羽田まで見送った時の既成の水色のスーツ、脊椎骨折でコルセットを装着した時、ボタンを前開きに作って貰った2枚のワンピース等々、様々な残り布は私の人生のある時を語っており捨てがたかったが思い切って捨てた。燃えるゴミとして・・・・・・。

 キルティングの生地として再生できそうだったけれど・・・・・・。

 昔、デパートの空き箱や包み紙、紐まできちんと整理して長押の棚に整理しておいた母の後姿を思い出す。東京の三越や高島屋の包み紙やリボン、箱などの魅力的なデザインのものなど捨てないで置いていたことがあるが、結局使わずに古びてしまい捨てる羽目になってしまった。

 過剰包装を批判しながら、この頃はゴミとして捨てる、捨てる、のが毎日である。

 まだまだ使わないのに、愛着やら、もしやの時など考えて捨てきれないものがある。

 こんな時代にもし母が生きていたら、どんな顔をするだろう か。捨てることにますます複雑な思いの今日この頃である。

                                     〔平成5年 12月〕

 

 
 
vol.26
  いのちの三題
2004-2-4
 
 

「生きてゆくさびしさをひたと思うとき、君がいにちに真向いて居り」。若山牧水の歌だったと思うが、この通りであるかどうか定かではない。20歳代、寮生活で同室だった畏友Mさんが、私の眼の前で毛筆で巻紙に、すらすらと書いて見せた歌である。達筆だった。
 当時、彼女にはあるひとつの恋の終わりがあったらしい。本州のはてまで訪れた彼女の前に座した人の確かな鼓動を、私は勝手に想像した。そして、心を持つ人間のいのちの複雑さ、微妙さ、その心の動きを謳あげる歌人の心のあえかさに漠然と感動していた。共に青春を生きていた。

                          

 6歳まで、私の家は奥州街道沿いの、切り通しの穏やかな坂の部落にあった。
 近所の年上の子に教わった遊び、まず、みんなで薄緑や茶色の硝子瓶のかけらを探す。そして、街道の土手の軟らかい土に、拳ほどの穴を掘る。5月の頃だった。私は土手に咲いた白い野ばらの花を彩り、穴の中にそっと置き、拾った硝子で蓋をし、土の中に埋めた。
 次の日、みんなで自分の花を見に行く。そっと覗くと、花は土の冷気と湿気の中で、昨日採った時と同じように活き活きと、硝子の底に静かに咲いていた。花が生きていたという喜びと安堵、それは子供心に初めていのちを実感した時だったように思う。

                          

 その家の前には動物のいのちがあった。父方の家族の誰かが飼っていたらしい。通りに面した板戸に大きな禽舎が取り付けてあり、1羽の鷹が居た。鋭い眼と爪、止まり木にとまったその爪で長い蛇を捕まえ、蛇の尾がだらりと下がっていた。それは恐ろしく刺激的な光景であり、今も鮮やかに私の網膜に焼きついている。弱肉強食のいのちの残酷さ、子供には二度と見たくない光景だった。

                          

 植物に限りなく愛着を感じ、動物園に行きたいとは思わない私の今の性格は、幼いときのこの心の原風景によるのではないかと思う。だが、青春のいのちのときめきにおののいた若き日の思い、今にして思うと、あれは生物学的な青春期の性ホルモンのなせる業だったかと、冷めた意識で思い起こしてみたりもする。
 しかし、いのちある人の心の綾は、老いてなお、我が心のゆらぎさえ解き明かせぬままにいることもある今日この頃である。 


 
 
vol.25
  表裏一体流 2003-12-18
 

 古希の祝いに、弟妹達から茶の湯の風炉釜をもらった。趣味で続けているフランス刺繍で、薔薇の花をあしらった風炉先屏風は、茶の湯を趣味とする友人のご主人が、日曜大工で作ってくださった。ともに我が家の一隅を飾っている。

 先頃、「お茶は何流ですか」と津波古さんから問われて、思わず「裏表一体流」と答えたら、彼女は戸惑いながら、少し呆れたように笑っていた。

 茶の湯に初めて触れたのは旧制高等女学校時代、流儀は裏千家、男の先生だった。

 その後、社会人となり、あの戦いのさなか、陸軍病院船に勤務。その時広島でお茶をならった。当時、傷病兵の内地送還を終えると、次の航海まで旅館暮らしとなり、その間をぬって、私たちは誘い合い、茶の湯の師を探し当て、お稽古に励んだ。表千家の師匠だった。

 小柄で、おっとりとした広島弁の老婦人は、日時を問わず受け入れてくださり、私達は戦いの日々の救護を忘れる静寂の時を過ごさせていただいた。爆心地に近いところにその家は小さな庭を控えひっそりと表通りを少し入ったところにあった。戦後暁会で広島を訪れ、あの先生は、爆死されたに違いないと、思い出を共にする友と語り、悲しみを深くした。

 私の茶の湯は、その後勤務先に応じて裏、表と変わったが、歳と共に職責も重くなり、心身のゆとりがなく、茶の湯も思いつつ遠ざかってしまった。結局、私の茶の湯は混沌として表裏ないまぜとなり、出来るお点前平点前だけなのである。だが、風炉釜の前に座ると、不思議と心が落ち着くが、今更、師につく覚悟もできず、この道を極めた方からお叱りを受けそうである。

 裏千家家元、千宗室氏も『風興集』という本を読んだ。「茶道の普遍化にともない、さまざまの理屈、変態も出てくるので、これを純正に導き、正しく統制したいと常に苦心している」とある。私には心痛む言葉である。相手もなく、ひとり風炉釜の前に座る私の流儀は、利休様にもお目こぼしを願うほかない。

 「表裏一体とは」と広辞苑で調べてみた。「表と裏がよく一体となること、裏表のべつなく一体をなすこと」とあった。本当の私の茶の湯は、無手勝流、我流の茶を楽しむばかりである。第一、きっかけとなった風炉先屏風の薔薇の花からが、外道だったのである。