我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
vol.24
  至福の贈り物
2003-11-22
 
 

 ここ数年、誠に贅沢に四季折々の果物を味わわせて頂いている。内需拡大が国是となり、国が豊かになったせいかと思う。

 例年6月、高知の藤川さんご夫妻から南国の豊饒を誇示するような6個のメロンが届く。白く浮き出た細かい網目、ずっしりした重量感。芳香の漂う頃包丁を入れる。確か、共に味わう人がいる時がいい。王侯貴族の味である。たっぷりと味わう。同時に食べ時になるので、藤川さんにご縁のあった方にお頒けするよう心を配っている。

 今年は7月はじめ、桃畑の間に住む山梨の友、奥村、石川さんから桃が届いた。薄い皮がつるりとむけ、手に汁がこぼれるみずみずしさ、思わず、美味しいという言葉と共に呑み込んだ。そして8月中旬になって鳥取の梨二十世紀が届いた、思わぬことに東京の角田さんからだった。淡い黄緑色、甘味は少ないが際立って水気が多い。厳しい残暑のなかにひときわ爽やかだ。

 9月に入ると、福島に嫁いだ姪から電話で、出産祝いのお返しに地元の桃を送りたいという。9月に桃とは意外だった。川中島白桃と書いた箱がついた。生まれた勇介くんが飛び出してきそうな、びっくりするほど大きな桃太郎型の桃だ。少しおいて柔らかになってから、冷蔵庫で冷やして食べてほしいと、言うとおりにした。美味!これにしようと思った。昨年来、特別の配慮で輸血をして頂きお世話になっているK先生に食べて頂きたいと思った。早速ご家族に電話、喜んでというご返事に、姪に電話、同じものを送ってもらった。

 その数日後、福島いわき市の知人から、地元の梨、幸水が届いた。来合せた友人と共に、その甘さに満足し、果物談義をしながら味わった。「葡萄の巨峰は少し甘すぎる。甲斐路が良い」などと。この話を盗み聞きしていたかのように、翌日山梨に住む教え子の望月さんから、甲州の秋の陽光を吸い込んだような赤紫色の大粒大房の甲斐路が届いた。

 甘露甘露、これから例年のように、青森、福島の林檎、静岡の密柑、そして高知の文丹と続きそうである。私は、食べきれない林檎でアップルパイをいくつも焼いて、誰彼となく贈る。相次ぐ果物攻勢、特に予告なしの突然の宅急便は、新鮮なうちのお裾分けも老いの一人暮らしには大変だが、生きていることの幸せを思わせてくれる至福の贈り物である。

 
 
vol.23
  福島弁の痕跡
2003-10-20
 
 

 先日、教育テレビで「外国人による日本語弁論大会」を観た。今回で35回とか。私はよくこの番組を観てきたが、いつもながら彼らの見事な日本語には舌を巻く。

 内容が面白い。多くは日本人自ら気付いていない、日本語独自の風俗習慣などについての問題提起である。ユーモアがあり、風刺が効いていて笑わされ、考えさせられる。日本人顔負けの表現力である。

 しかし、よく聞いていると、彼らの日本語にもそれぞれの母国語の特徴がどこかで顔を出している。日本語の濁音の発音が苦手だったり、母国語のイントネーションが抜けきれなかったりするようである。

 ずっと昔、ラジオが出始めた頃、勿論テレビもない時代に、私は福島のふるさとから方言を引っ掲げて上京した。

 その頃、母は「東京さ行って戻った人が東京弁をしゃべるのはめんごぐねぇなー」と言っていた。近所の桶屋の娘、トシちゃんのことらしかった。心が通じなくなってしまったのであろう。

 しかし、故郷を離れて半世紀、私の方言もすっかり東京に同化し、標準語に近い。まさか関西出身とは言われないが、出身地を当てられることもなくなった。

 ところがである。10年前、職場にいた頃、出始めたワープロで授業の資料を作った。ある時、地域と言う語を探したが漢字が出てこない。こんな一般的な語が入力されていない機種に不信と不満を感じつつ、仕方なく「ちえき」とひらがなのまま資料を作り、学生に配った。「ちえき看護」と平気で読み上げる私に埼玉の学生の反応は定かでなかった。が、時を経てもしやと思い、「ちいき」とキーを打ち漢字変換してみたところ、なんと立派に「地域」と出たではないか。やっぱり私は福島の人間なのだ。弟も東京に出て久しいが、未だに英語をイーゴと言い、その都度「イーゴ?」と揚げ足をとってやるのだが一向に変らない。イとエの混同、尻上がりのイントネーションは、わが方言の特徴である。

 ここで、本人にお断わりしてもう一人の福島弁の人のことを伝えたい。渡辺トミさんは、戦後私が海軍病院に、福島班の婦長として勤務していたとき班員として着任してきた。その後、共に国立から日赤と職場を移してきた。日赤にきて、彼女は一貫して手術室に勤務し、婦長だった彼女に私は3度の開腹術を受けてお世話になっている。

 彼女には手術室の伝統的エピソードがあった。ある日の手術のまっ最中に彼女は学生に「イスを持ってらっしゃい」と命じた。と、学生は椅子を持って手術室に飛び込んできた。「イスじゃないイスだよ!」。学生はきょとんとしている。これに気づいたのが事もあろうに術者であるドクター、マスクの下で吹き出したとか。何とお見事な福島弁。同県人として脱帽である。彼女が初めて短大の学生に「手術室勤務技術」を講義することになった。私は彼女に言った。

 「ネーなべさん、講義をはじめる前に黒板に、イスとS(ペルカミンSという麻酔薬の略)と書いて、私はこちら(S)を持ってくるようにいったのに学生はこちら(椅子)を持ってきた。私はどちらも同じ発音なので、話の内容によってどちらか判断しなさいって言っておいた方がいい」と話した。「話してみた?」「うん」「学生は?」「笑ってた」。渡辺さんも弟も方言をあまり気にしていないのである。

 定年退職後少しの間、私は近くのカルチャーセンターで、かつてのラジオの「私の本棚」で有名な樫村治子さんの朗読教室に通った。全員が出生地を問われたが、外国人弁論大会にみる母国語の痕跡と同じ物をもっているのであろう。福島出身は要注意だった。

 あの世にいって母と逢ったら私はやっぱり福島弁で話すに違いない。

 
 
vol.22
  馬子にも衣装 2003-09-26
 
 

 小学校5年の時、通信簿に「先天性亀背」と難しい字が書かれていた記憶がある。私はその頃からいわゆる猫背だったのであろう。

 娘盛りに、3つ年下の妹と並んで和服を着ると亡き母がのたもうた。「チイ子は着痩せするのにアイ子は着太りする」と。私はリラックスするとすぐ背中が丸くなる。

 病院船に勤務していた頃、「猫3匹!」と怒鳴って私の背中をピシャリと叩き、姿勢を正してくださる先輩がいた。唐津あいさんである。

 猫背。着太り。どう考えても私には美しく装う資質が欠けている。しかし、美に対する憧れや感覚は、人並み以上にあるように思うが、自分の着てみたいと思うものときて似合うものとの間にはかなりの落差がある。バーゲンセールにつられて高級でも安い掘出物を見つけて着ても、ピタリとこない。

 そうだ、馬子にも衣装なのだと、だんだん悟ってきた。私は馬子なのだから、衣装を選ばなければならない。少し値がはっても、馬子を引立てるようなものを身につけなければならない。それが私の衣装の哲学(?)になった。

 40代の頃、「婦長さんオールドミスでは可哀そう」と、スタッフの1人高柳さんからクラシックミスなる称を賜った。同世代は、ミセス向きとか主婦向きのファッションであるが、私の感覚とは大分ずれている。ますます衣装選びは難しく、それこそ、馬子馬子と悩んだ。


 いつ頃からか、仕事を 離れたら和服にしようと思うようになった。体の線を隠してくれるし、良いものを着れば、それなりの品位がでる。それで、栃木の自治医科大看護学校を辞めるときは、退職金を全部はたいて近くの伝統織物結城紬の着物を手に入れた。だが、未だ着る気分にも、状況にもなっていない。

 要は着ていて自然で自分らしくいられるものがいちばんだと思う。つくづく、ネクタイひとつでお洒落ができる男性が羨ましい。

 この頃は、夜毎渋く趣味の良いネクタイであらわれる、ニュースキャスターK氏の襟元に見入っている。