我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
vol.16
  笑う
2003-3-8
 
 

 30歳代の10年間、外科病棟の婦長だった。後でその頃の写真を1冊のアルバムにまとめて、しみじみ眺めて驚いた。どの写真も笑顔なのだ。「チーズ」という笑顔をつくるサインもなく現在ほどカメラも普及していなかった時代である。

 ユニフォーム姿で少し前歯を見せ、伸びやかに笑っている。スタッフにも恵まれ、看護は楽しかった。その頃の私は生涯で一番笑っていたように思う。

 病棟で年数回のパーティーがあった。スタッフの歓迎、お別れ、忘年会などであったろうか。婦長以下のナースのみの10数人、当直者も交代で出席できるようにいつも病院食堂の小さな一室を夕食後借り切りとした。男性も居ないし酔う人も居ないのに、いつも賑やかなお笑いパーティーとなる。

 進行係は主任の小川タカさん。才女である。次々と思いもかけない「遊び」を仕掛け、皆を夢中にさせる。

 確か幸田露伴の娘の文さんが書かれた随筆に父親の露伴が、文さんとその弟を遊ばせている情景があった。屏風の後に姉弟を立たせ「父出ろ、母でろ、父出ず、母でろ」とか、畳の縁を歩かせ「縁踏んだり、踏まなんだり」と掛け声を掛け、子供達を熱中させているが自分はあくまでも客観の位置に居る。私は彼女の遊ばせ方に、いつも露伴のこの情景を思い出していた。

 そして、この遊びも回を重ねるうちに、スタッフお好みの遊びのパターンが出来上がった。

 先ず始めの段階では、五、七、五の句合わせ、それぞれ勝手に五七五の句を書いてバラバラにしてから又集めて、読み上げる。「猫のひげ、口惜しいけれど、君と僕」。今でも覚えている一句、意味のあるようなないような何となくおかしい句、もっと迷句、シニカルな川柳もどきや思わぬ名句もあった。個人の感性に応じて感動したり、吹き出したりである。次に人気のあったのがお絵かき。白い紙が配られ、線から始まるタカさんの画く絵を次々と右にならって書き出す。「これ何なの!」と言いながら書き写しが進んで行くのだが、テーブルの角の人の所で、その線は大きくデフォルメされ、終わりには何が何だか分からない原画とは似ても似つかない絵が出来上がって一同大笑い。

 そして、最後はお家芸の羅漢回しとなる。

 「羅漢さんが揃たら回そうじゃないか、ヨイヤサのヨイヤサ」、それぞれ工夫の羅漢像が定まると、勢いよく、ヨイヤサ、ヨイヤサと回し始めだんだん早くなる。馴れて来て全員気分が入り好調が長続きすると、タカさんの掛け声、ハイ立ってと立ち羅漢である。そして、ハイゆっくりと・・・・・・となると仕草に振りがついてきて、陶酔型が出てくる。まるで踊る宗教さながら。お互いに相手を見ているうちに吹き出したくなる。我慢が出来ずに誰かが声をあげると一同、どどーっと椅子の上に総倒れ、声をとぎらせ、涙を流し、汗を出し転げ回って笑うのである。

 婦長の肩書きもそっちのけ、あれ程大勢での天下御免の大笑いにはその後余り出会っていない。思い出してもおかしくなつかしさもひとしおである。

 
 
vol.17
  階段から落ちた
 2003-4-11
 
 

 昭和48年1月中旬の夕刻7時、明日の関東地区赤十字看護学校教務部長会議の当番校を引き受けている私は、3階の耳鼻科病室に入院している弟を見舞って、帰寮を急いでいた。

 病院の廊下は薄暗い。足元の廊下がまだ続いているという感覚で私は勢いよく歩き出した、と、突然私の身体は宙に浮いた。どこをどうしたのか、3階から2階に向いた踊り場まで13段を一気に飛び、後半は、残り数段をドドーと仰向けに落ちていった。中間に1メートル程の踊り場があったが、軽く飛び越えていたらしい。

 フッと、階段の拭き込まれた木肌が目に入り、瞬間、頭を打ったら危険!と、後髪を僅かに階段から離し、次の瞬間2階に向いた踊り場の端に、ドーンと尻餅をついていた。

 骨折は?と手を伸ばし、足を伸ばしてみた。折れていないようだ。眼鏡も顔に付いている。身体のどこかが痛い。のろのろと立ち上がり、残りの階段をそろそろと降りた。

 2階外来廊下の遠くの方で、白衣の医師がゴルフの素振りをしていた。この醜態は誰にも見られていなかったようだ。1階の廊下まで降りた時、気が遠くなっていた。ユニフォームにキャップ、黒皮の半コート姿の私は、急患待機中の夜勤のナースの酒井さんの前に立っていた。

 「どうなさったんですか」。擦りむいてストッキングまで血の滲んだ足を見ながら彼女は叫んだ。「ちょっと、階段の所で転んだの」と、その時の私は「階段から落ちた」とは恥ずかしくて言えなかった。

 診察台に寝かされ、整形外科当直の溝田ドクターが現われ、レントゲン室に運ばれた。第1・2腰椎の圧迫骨折、さいわい神経損傷はないらしく、脊損による車椅子の生活はさけることができそうだ。昭和初期に建てられた病院の木造の優しい階段が私を救ってくれたと思った。

 次の日から私は入院の身となった。胸から腹部までギプスに包まれ、ベッドの中でこれまでの、10指に近い我が身の入院回数を恥じていた。

 何よりも、職場の、入試、期末の進級、卒業と、年間の最も重要な時期、管理者として主導せねばならぬ立場をほとんど放棄すること、小規模ゆえに残された教職員の負担を思うと、心ならずも起こった事故であるが、我が身の責任を思い、ベッドの中で駆け出したいような焦燥感にかられていた。

 学生が一、二、三年生と1クラス毎にそれぞれそれらしい見舞いを届けてくれた。中でも卒業期を控えた三年生(16回生)の寮内各室をめぐりめぐって書かれたであろう寄せ書のアルバムは傑作で、私の心を十二分に慰め励ましてくれるものだった。

 しかし、数日のベッド生活で私はある覚悟をしていた。職場からの辞任である。

 現職の前、私は短大学生専任の臨床指導者として7年の職歴をもっていた。看護と教育の共有、これこそが私の天職と、私はこの職責を定年の日まで続けても良いと満足しきっていた。始めは、2度に及ぶ胃癌の手術後の私の逃避先として与えられた職場だったと思っている。

 だがある日、全く突然に前任者の海川教務部長が辞任された。教育歴、職歴共に彼女にふさわしい職責であり、社会的にも広く厚い層の信頼を得て居られる存在だった。「その後任に私が?!とんでもないこと!考えてもみたことのない、最も不得意な管理職は絶対受けられない」と固辞し続けたが、上からの業務命令という強圧に屈しきれなかった。

 それから3年間、それは自分との闘争だった。緊張、ストレスの連続である。その緊張の糸がベッドの中でプツンと切れたのである。階段から落ちた。それは私の人生の転機でもあった。畑短大事務長、足立病院看護部長のご了解を頂き、これ以上我が母校母院に迷惑をかけることはさけることができると思うとやっと安らぎを得ることができた。そして、その年の秋、私は赤十字を離れ新しい職場に移ることになった。思うにトップに立つ人には本人の強い意志と同時にそれなりの準備教育、特に管理者として判断するための知識情報が必要だった。だが、私にはそれらは皆無に等しかった。強力者もアドバイザーもあったのに未熟であった私には、それを受けとめる力さえなかったのだと思う。同時に看護という社会が近代化するための過渡期に生きた者の宿命だったとも思っている。

 階段から落ちた!それは私にとっては名実共に当時の札幌オリンピックのゴールドメダリスト加佐や選手級の大ジャンプだったと思っている。そして、あの時、ご迷惑をおかけした多くの方々に今も心の中で詫びつづけているのである。

 
 
vol.18
  明治村に臨床看護の原点を思う
2003-5-31
 
 

 去る7月の炎暑の一日、一泊で明治村まで、看護の大先輩、林塩先生と御一緒に旅をする機会を与えられた。私共も旧日赤中央病院の一部の内科病棟が、病院新築を機会に、明治村に移築されることになったため、それに関する仕事をいいつかったからである。同村の東京事務所長、土屋氏のご案内であった。

 明治村には、学校、役所、民家等々さまざまな種類の明治時代の建て物が建てられている。

 この中に病院関係としては、名古屋の衛戌病院と、木曽・清水医院とが既に建てられているが、これらの病・医院とは少し趣を異にした日赤の内科病棟が、これに加わることになるわけである。既に取りこわされた建て物と、この病院で、ついこの間まで使われていた明治調の、鉄製擬宝子付寝台とか、黒ウルシヌリ床頭台とか、ルイ朝型黒ヌリ円型卓子等々の小道具類も移される予定になっている。ところで、明治村に見られる建て物の多くは、建築物の外形は見事に再現されているが、その建て物のなかでの人々の生活様式を伝える調度品、道具類は意外と少ないようであった。本院の場合は、出来るだけそこに明治時代の病院と、そして赤十字の救護看護婦養成を目的として建てられた病院なので、看護に関する資料も残したいというのが、明治村および病院当局の意向なのである。

 さて、この建て物が出来上がったその時代に、この建て物の中で、一体どのような看護がなされていたのか、また人々はどのような看護を受けていたのであろうかと、改めて考えさせられた。展示すべき予定の、古い看護の教科書とか、看護教育に力をつくした初代院長、初代社長、ナイチンゲール記章の受賞者等に関する資料は多く残されているのであるが、ここで私が知りたいと考えたのは、この時代にこの建て物の中で行なわれていた看護のわざについてである。

 ところで、私がこの病院の養成所に入学したのは、既に昭和も二ケタに入った時代であったが、その当時ここで学んだ看護のわざでさえも、おそらく戦争、経済等の社会的背景と、医学の進歩等の影響を受けて、その当時とは大分様式を異にしてきているのである。

 養成開始にあたっては、ナイチンゲール看護婦学校の規則や方針がとり入れられたということであり、現在でも学校に残されている1859年版のナイチンゲール著『病院覚え書き』とか、1924年版の『看護覚え書き』、そして、50年前の、ナイチンゲールの肉声入りレコード等からでもこの事実は理解できるのであるが、それがこの時代にどのような形で根を下ろし枝を張り現在に至ったのであろうか。

 特に看護独自の機能と言われる食事、排泄、身体の清潔、体位等に関する援助行為はどのようになされたものなのであろうか。手で、心で行われた素朴なものであったようにも推察できるし、医学の発達も、今日のようではなかったため、患者はひたすら“忍”の一字に過ごし、看護もまた、耐えることをはげますことではなかったろうかとの思われる。そして、看護用具等についても、素朴な手づくりの創意工夫がなされていたのではなかろうか。例えば、私がこの病院で学んだ時代の差し込み便器の扱い方については、今でもすてがたく思っている。それは、便器の臀部に当たる差し込みの部にまず、厚目の綿花を置いてクッションをつくり、四角の風呂敷大の桐油紙の一端を折り込んで、その部をすっぽりと覆うのである。そして残りの油紙で、便器の両側を覆い、反対側の一端を中心に、きりりとねじって、便器の取っ手のところに、まきつけるようにして整えると出来上がるのである。それには看護する者のあたたかい心のいたわりのようなものがこめられていたように思うのである。今では、この差し込み便器も業者のつくったスポンジとゴム紐つきの、味気ないビニールカバーに代わってしまったのであるが・・・。

 ところで、同じような、看護のわざの伝承は、他の病院でも行われていたことであると思う。一体、病院とは、一つの閉塞された社会であり、勿論学会ももたなかった看護は、それぞれの病院での、縦の伝承は行われていたとしても、横の伝承は少なかったように思うのである。そこで日本でも比較的古い歴史を有する病院での、看護の技術史のようなものの編纂を試みてはどうであろうか。苦しむ病人に立ち向かった先人のひたむきな思いが、何らかの形として受けつがれ、その中には、理論的にも実証できる立派な技術があるのではなかろうか。